6.おやつの時間
それから。
娘が帰ってくる頃になると、二匹の三毛猫が塀の上に並んでいることが増えた。
「今日も二匹いる」
娘は見つけるたびに、嬉しそうに笑った。
「仲いいねえ」
招き猫は、つい返事をしたくなる。
けれど。
「毎回返事しない」
隣から小さく釘を刺される。
――分かっています。
「今、返事しようとしたでしょ」
――していません。
「尻尾が動いてた」
招き猫は慌てて尻尾を止めた。
「それも不自然」
――難しいです。
「考えすぎなんだって」
先輩三毛猫はそう言って、大きなあくびをした。
娘には当然、二匹のやり取りは聞こえない。
「じゃあね」
手を振って玄関へ向かう。
招き猫は、その背中を見送った。
最近では、娘が笑ってくれるだけで少し嬉しい。
福を招く。
まだ、その方法はよく分からない。
けれど。
娘が二匹を見て笑うなら。
こうして塀の上に座っているだけでも、何かの役には立っているのかもしれない。
そんなことを考えていた時だった。
「あ」
玄関へ入ろうとしていた娘が、何かを思い出したように振り返った。
「ちょっと待ってて」
家の中へ消える。
――待ってて?
「さあ」
先輩猫は気にしていない。
しばらくすると、玄関の扉が再び開いた。
娘が小さな細長い袋を手に持っている。
それを見た瞬間。
隣の先輩三毛猫が立ち上がった。
――どうしたんですか。
「おやつ」
――おやつ?
「知らないの?」
娘が袋の先を切る。
招き猫の鼻にも、今まで嗅いだことのない匂いが届いた。
「今日はあるよ」
娘は塀のそばにしゃがみ込んだ。
先輩猫は迷うことなく塀から降りる。
招き猫はその様子を見ていた。
――それは、ご飯なんですか。
「違う」
先輩猫が即答した。
――では何ですか。
「おやつ」
――だから、おやつとは。
「美味しいもの」
ずいぶん大雑把だった。
娘が袋から少しずつ中身を出す。
先輩猫は夢中になって舐めている。
ぺろ。
ぺろ。
ぺろ。
普段は何をするにも気だるそうな猫が、今だけは妙に真剣だった。
――そんなに美味しいんですか。
「美味しい」
――普段もご飯をもらっているんですよね。
「それとこれは別」
――何が違うんですか。
先輩猫は一瞬だけ顔を上げた。
「別腹」
――別腹。
「猫にはあるの」
本当だろうか。
娘が笑いながら先輩猫の頭を眺めている。
「ほんと好きだねえ」
招き猫は塀の上から、その様子を見守った。
娘は一度こちらを見た。
「君は食べない?」
招き猫は首を傾げる。
先輩猫を見る。
先輩猫はまだ夢中で舐めている。
――私は食べなくても平気なので。
「じゃあ食べなくていいんじゃない?」
先輩猫はあっさり言った。
招き猫も、そういうものかと思った。
娘は無理に近づけてくることもなく、
「そっか」
と笑っただけだった。
その日は、それで終わった。
◇
翌日。
招き猫はいつものように玄関先へ実体化した。
もう、この程度の距離ならほとんど疲れない。
軽く身体を伸ばし、塀へ跳び乗る。
しかし。
――いない。
いつもなら先にいるはずの三毛猫の姿がなかった。
『今日は一匹なの?』
鏡台の声が届く。
――みたいです。
『あの子にも都合があるじゃろ』
桐箪笥が言った。
少しして。
先輩三毛猫の姿が道の向こうに見えた。
「今日はご飯の日だから」
――ご飯。
「いつもの人が来る時間」
そう言えば、地域の人間から餌をもらっていると言っていた。
――一緒に行かなくていいんですか。
「なんで?」
――猫として。
「あんた食べないでしょ」
――そうでした。
「じゃあ、ここにいれば」
先輩猫は当然のように言う。
「どうせ、あの子待ってるんでしょ」
――待っているわけでは。
「はいはい」
先輩三毛猫は道の向こうへ歩いていった。
招き猫は一匹で塀に残った。
少し落ち着かない。
今までは隣に先輩猫がいた。
一匹で娘を待つのは初めてだった。
『緊張してるの?』
鏡台が尋ねる。
――別に。
『尻尾が落ち着いとらんぞ』
桐箪笥まで言う。
――見えているんですか。
『気配で分かる』
どうやら家の先輩たちにも隠せないらしい。
その時。
足音が聞こえた。
招き猫は反射的にそちらを見る。
――あ。
娘だった。
昨日と同じ鞄を肩に掛けている。
招き猫に気づき、少しだけ目を丸くした。
「あれ?」
招き猫はじっとしようとした。
「今日は一匹なんだ」
――はい。
返事をしそうになり、飲み込む。
娘が周囲を見る。
「相方は?」
――ご飯を食べに。
当然、伝わらない。
娘は塀の上の招き猫を見上げた。
「一人で待ってるの?」
招き猫は迷った。
返事をしてはいけない。
毎回反応してはいけない。
先輩猫から何度も教えられた。
だから。
何もしない。
娘は少し笑った。
「ほんと猫って気まぐれ」
――今、ちゃんと猫でした。
『自分で言うことではない』
桐箪笥の声が届いた。
娘は一度玄関へ向かった。
だが、途中で立ち止まる。
昨日と同じだった。
「ちょっと待ってて」
そう言って家の中へ入っていく。
――また待っててと言われました。
『待っていればいいじゃない』
鏡台が言う。
――はい。
少しすると。
娘が戻ってきた。
手には、見覚えのある細長い袋。
――あ。
『昨日のじゃな』
桐箪笥も気づいたらしい。
娘は塀のそばにしゃがんだ。
「昨日、あの子が食べてたでしょ」
招き猫は袋を見る。
昨日、先輩猫が夢中で舐めていたもの。
「君も食べる?」
差し出された。
招き猫は動けなかった。
食べる必要はない。
腹も減らない。
水だって必要ない。
先輩猫も、食べなくていいと言っていた。
だから。
断ればいい。
そう思った。
けれど。
娘は自分のために家の中から持ってきてくれた。
昨日は食べなかった自分のことを覚えていて。
今日は先輩猫がいないのに。
わざわざ。
「いらない?」
娘が首を傾げる。
招き猫は、恐る恐る立ち上がった。
――少しだけ。
塀から降りる。
娘は動かない。
先輩猫から教わったことを思い出す。
いきなり近づかない。
匂いを嗅ぐ。
警戒する。
招き猫は袋へ鼻を近づけた。
昨日も感じた匂い。
近くで嗅ぐと、もっと強い。
「大丈夫だよ」
娘が優しく言った。
招き猫は。
ほんの少しだけ。
舌を出した。
ぺろ。
――。
もう一度。
ぺろ。
――美味しい。
『どうしたの?』
鏡台が尋ねる。
――美味しいです。
『食っとるのか?』
桐箪笥の声。
――はい。
『お前さん、食事はいらんのではなかったか』
――いりません。
『ならなぜ食っとる』
招き猫は答えなかった。
というより。
答える余裕がなくなっていた。
ぺろ。
ぺろ。
ぺろ。
もっと。
「食べるじゃん」
娘が嬉しそうに笑う。
招き猫は顔を上げた。
――あ。
夢中になっていた。
猫らしく。
猫らしく。
と考えていたはずなのに。
「美味しい?」
――はい。
「にゃあ」
鳴いてしまった。
娘が笑った。
「返事してくれた」
――しまった。
『今のは仕方ないんじゃない?』
鏡台が笑っている。
『甘やかすな』
桐箪笥は厳しい。
しかし。
招き猫には、そんなことより。
目の前で笑っている娘の方が気になった。
楽しそうだった。
自分がチュールを食べただけで。
こんなに笑う。
福を招いた。
そう呼んでいいのかは分からない。
けれど。
少なくとも今。
娘は少し幸せそうだった。
だったら。
これもきっと。
小さな福なのだろう。
◇
「何それ」
その日の夜。
いつもの場所へ戻ってきた先輩三毛猫は、招き猫の話を聞いて呆れていた。
――チュールをいただきました。
「食べないんじゃなかったの?」
――食べなくても平気です。
「じゃあ何で食べたの」
招き猫は少し考えた。
――娘がくれたので。
「ふーん」
先輩猫は特に驚かない。
――あと、美味しかったです。
「でしょ?」
そこだけは少し得意そうだった。
――また食べてもいいんでしょうか。
「好きにすれば?」
――でも、食べる必要は。
「必要なくても、美味しいなら食べればいいじゃん」
招き猫は感心した。
――先輩は難しいことを考えませんね。
「悪口?」
――褒めています。
「そう」
たぶん伝わっていなかった。
◇
夜。
招き猫は実体化を解いた。
三毛猫の身体が消え。
意識が玄関の本体へ戻る。
今日も、少し疲れた。
けれど。
悪くない疲れだった。
『ところで』
桐箪笥が言った。
――はい。
『お前さん、さっき何か食っとったな』
――チュールです。
『それは聞いた』
少し間があった。
『……あれは、どこへ行ったんじゃ』
招き猫は黙った。
――どこへ。
『腹に入ったんじゃろ』
――たぶん。
『その腹はどこにある』
招き猫は考えた。
三毛猫の身体には確かに腹があった。
だが。
その身体はもうない。
棚の上の本体は、小さな土の招き猫だ。
当然、胃袋などない。
――……。
『考えてなかったの?』
鏡台まで会話に入ってきた。
――はい。
『猫の身体は消えたでしょう?』
――はい。
『じゃあ、食べたものは?』
――……。
二体の視線のようなものを感じる。
招き猫は考えた。
考えて。
考えて。
結局。
一つだけ、確かなことを答えた。
――美味しかったです。
『質問に答えとらん』
桐箪笥の呆れた声が、夜の家に響いた。




