5.猫らしく
――覚えてた。
「忘れるわけないでしょ」
三毛猫は呆れたように尻尾を振った。
「猫が突然消えるなんて、初めて見たんだから」
招き猫は返す言葉に困った。
確かに。
声をかけた相手が目の前で消えれば、普通は驚くだろう。
――この前は、すみませんでした。
「別にいいけど」
三毛猫は招き猫の周りを一周した。
鼻を近づける。
右から。
左から。
最後に、真正面からじっと見つめてきた。
招き猫は落ち着かなくなった。
――何ですか。
「あんたさ」
先輩三毛猫は鼻をひくつかせた。
「本当の猫じゃないでしょ」
招き猫は固まった。
――どうして。
「やっぱり」
三毛猫は特に驚く様子もない。
「匂いが変だもん」
――変。
「薄いっていうか、生き物っぽくないっていうか」
三毛猫はもう一度招き猫の匂いを嗅いだ。
「それに歩き方も変」
――練習しました。
「猫は歩く練習なんてしない」
言われてみれば、その通りだった。
「この前だって、私が喋ったくらいであんなに驚いてたし」
――初めて猫と話したので。
「ほら」
三毛猫は座り込み、前脚を舐め始めた。
「やっぱり猫じゃないじゃん」
招き猫は少し迷った。
桐箪笥は、付喪神だとわざわざ説明する必要はないと言っていた。
けれど。
目の前の猫には、すでに見抜かれている。
嘘をつく必要もない気がした。
――私は、招き猫なんです。
三毛猫の前脚が止まった。
「……招き猫?」
――はい。
「あの、こうやってるやつ?」
三毛猫が片方の前脚を少し持ち上げる。
――たぶん、それです。
「へえ」
それだけだった。
招き猫は待った。
三毛猫は再び毛づくろいを始める。
――驚かないんですか。
「何に?」
――招き猫が猫になって喋っていることに。
「だって、あんた最初から変だったし」
随分と雑な納得だった。
――付喪神というものらしいです。
「つくもがみ?」
――長く大切にされた物に、心が宿ったものです。
「ふーん」
また、それだけだった。
――それだけですか。
「他に何かあるの?」
招き猫は答えられなかった。
人間なら、もっと驚くのではないだろうか。
なぜ動けるのか。
どうして猫の姿なのか。
どこから来たのか。
色々と聞かれそうな気がする。
けれど、この猫にはどうでもいいらしい。
「で?」
先輩三毛猫が言った。
「招き猫が、なんでこんなところ歩いてるの?」
――福を招くためです。
「誰の?」
招き猫は少しだけ家の方を見る。
ここからでは、角の向こうに隠れて見えない。
――あの家の娘です。
「あの家?」
先輩猫もそちらを見る。
「ああ。よく私に挨拶してくるやつ?」
――知っているんですか。
「知ってるってほどじゃないけど」
三毛猫は尻尾を左右に揺らした。
「見かけると『今日もいた』とか『元気?』とか言ってくる」
――そうです。
「触ろうとして追っかけてこないから、嫌いじゃないよ」
それを聞いて、招き猫は少し嬉しくなった。
――優しい子なんです。
「そう?」
先輩猫の反応は淡白だった。
「人間のことはよく分かんないけど」
――私は、あの子に福を招きたいんです。
「へえ」
――だから、近くにいられるようになりたくて。
「猫になった?」
――はい。
三毛猫は招き猫を上から下まで眺めた。
「その割には、全然猫っぽくないけど」
――そんなにですか。
「そんなに」
即答された。
招き猫は少し傷ついた。
何日も練習したのに。
「まずさ」
三毛猫が立ち上がる。
「あんた、人間を見すぎ」
――見すぎ?
「ずーっと見るじゃん」
――様子を知りたいので。
「猫はそんなにずっと見ない」
――そうなんですか。
「あと、人間が何か言うたびに反応しすぎ」
招き猫は思い当たる節があった。
娘に話しかけられると、つい意識を向けてしまう。
「『今日もいるね』」
三毛猫が人間の真似をするように言った。
招き猫は反射的に顔を向けた。
「ほら」
――今のはあなたが言ったからです。
「同じでしょ」
違う気もする。
「呼ばれても、毎回振り向かない」
――聞こえているのに?
「聞こえてても」
――失礼では。
「猫に礼儀求めてどうすんの」
招き猫は黙った。
「それと、返事しすぎ」
――返事?
「にゃあって」
招き猫は首を傾げた。
実体化している間、自分にも普通の猫と同じように鳴き声を出せる。
人間には、当然ただの「にゃあ」としか聞こえない。
けれど、招き猫自身にとっては違った。
娘に、
「今日もいたんだ」
と言われれば、
「にゃあ」
――はい。今日もいます。
というつもりで鳴いている。
「人間に話しかけられるたびに返事してたら変でしょ」
――でも、話しかけられているのに。
「たまには無視しなよ」
――無視。
「猫だから」
便利な言葉だった。
「あと、毛づくろい」
――毛づくろい。
「やってみて」
招き猫は自分の前脚を見た。
そして、先ほど先輩猫がしていたように舐めてみる。
ぺろ。
何とも言えない感覚だった。
「下手」
――初めてなので。
「そこからなんだ……」
先輩猫は少し呆れたようだった。
◇
それから。
招き猫の猫としての修行が始まった。
「歩く時、下ばっかり見ない」
――転びそうなので。
「猫は普通転ばない」
「知らない猫に正面からずかずか近づかない」
――なぜですか。
「喧嘩売ってると思われるから」
「尻尾をずっと意識して動かさない」
――勝手に動くのが怖いんです。
「勝手に動かしとけばいいの」
「人間が近づいてきたら、たまには距離を取る」
――娘でも?
「あの子なら、まあ……少しくらいはいいけど」
――触らせても?
「好きにすれば」
先輩三毛猫は、教えるたびに面倒そうな顔をした。
それでも、招き猫が間違えると必ず直してくれた。
座り方。
歩き方。
人間との距離。
他の猫への挨拶。
毛づくろい。
気に入らないことがあれば耳を少し伏せる。
興味があれば鼻を近づける。
そして、何もない時は何もしない。
招き猫には、最後のそれが一番難しかった。
――何もしなくていいんですか。
「いいの」
――福を招かなくても?
「ずっと何かしてたら疲れるでしょ」
その言葉に、招き猫は少し考えた。
確かに。
付喪神になってから、自分はずっと何かをしようとしている。
娘のために。
福を招くために。
恩返しをするために。
「そばにいるだけってのもあるんじゃない?」
三毛猫は何でもないことのように言った。
招き猫は、その言葉を覚えておくことにした。
◇
何度か一緒に過ごすうちに。
先輩三毛猫のことも少しずつ分かってきた。
耳の先が、片方だけ小さく切られている。
――そこ、怪我ですか。
「これ?」
三毛猫は耳を動かした。
「違うよ。人間がやった」
――人間に?
「捕まえられて、寝かされて、起きたらこうなってた」
招き猫は驚いた。
「お腹もちょっと痛かったけど、すぐ治った」
――大丈夫だったんですか。
「今はね」
先輩猫は特に気にしていないらしい。
「これがあると、人間が『この子は済んでる』って分かるんだって」
招き猫には「済んでいる」の意味がよく分からなかった。
けれど、本人が気にしていないので、それ以上は聞かなかった。
先輩猫は、この辺りで暮らして二年ほどになるらしい。
決まった時間になると、地域の人間が餌と水を持ってくる。
体調が悪ければ気にかけてくれる人もいる。
だから完全に人間を嫌っているわけではない。
ただ。
「しつこい人間は嫌い」
らしい。
娘はその点、合格しているようだった。
「挨拶するだけで、無理に触ってこないからね」
それだけでも招き猫には嬉しかった。
◇
ある夜。
二匹は、娘の家から少し離れた塀の上に並んで座っていた。
招き猫も随分、猫の身体に慣れてきた。
先輩猫ほどではないが、塀へ跳び乗ることくらいはできる。
もっとも、着地するたび少し緊張する。
「ところで」
先輩三毛猫が言った。
「あんた、ご飯どうしてるの?」
――ご飯?
「何食べてるの」
招き猫は考えた。
付喪神として目覚めてから。
何かを食べたことは一度もない。
――食べていません。
「……は?」
先輩猫がこちらを見る。
――食べなくても平気みたいです。
「お腹空かないの?」
――空いたことがありません。
「水は?」
――飲んでいません。
三毛猫はしばらく黙った。
「猫じゃないって便利ね」
――そうでしょうか。
「じゃあ、餌場に来る必要ないじゃん」
――餌場?
「私がご飯もらってるところ」
――そうですね。
「他の人間に会う必要もない」
招き猫は首を傾げた。
――なぜその話を?
「だって、あんたがやりたいのって、あの子の近くにいることでしょ」
――はい。
「だったら、あの家の周りにだけいればいいじゃん」
招き猫は少し考えた。
本体から離れれば、それだけ実体を保つのに力を使う。
家の近くなら、長い時間いても消耗は少ない。
しかも食事のために遠くへ行く必要もない。
――確かに。
「今気づいたの?」
――はい。
「ほんと変な猫」
先輩三毛猫は呆れていた。
――でも。
「何?」
――私が急にあの家の周りにいるようになったら、娘が不思議に思いませんか。
「何で?」
――今までいなかった三毛猫が、急に毎日現れるから。
「人間って、そこまで気にする?」
――あの子は猫が好きなので。
「じゃあ余計に喜ぶだけじゃない?」
それでも招き猫は少し心配だった。
自分の正体を知られるわけにはいかない。
娘のそばへ行きたい。
けれど、近づきすぎて不自然に思われても困る。
先輩三毛猫はしばらく招き猫を見ていた。
やがて、面倒そうに息を吐く。
「なら私が、あの塀にいればいいんでしょ」
――え。
「私、もともとあの辺にいるし」
――それはそうですが。
「私がいて、その近くにあんたがいる」
三毛猫は尻尾を揺らした。
「だったら、急に知らない猫が一匹増えたんじゃなくて、私と一緒にいる猫に見えるでしょ」
招き猫は驚いた。
――そこまでしてもらわなくても。
「別に」
先輩猫はすぐに返した。
「私、元からあそこ好きだし」
――でも、ご飯の時間もあるでしょう。
「その時は私は行く」
――私は?
「残ればいいじゃん」
――一匹で。
「何。寂しいの?」
――そういう意味では。
「じゃあ問題ないでしょ」
理屈は通っている。
何より。
その方法なら、招き猫は本体の近くにいながら、娘のそばへ自然にいられる。
――ありがとうございます。
「まだ何もしてないけど」
先輩猫はそっぽを向いた。
◇
翌日の夕方。
娘が帰ってくる時間。
いつもの塀の上に、先輩三毛猫が座っていた。
その少し隣。
招き猫も座っている。
「じっと見ない」
先輩猫が小さく言った。
――はい。
「人間が出てきても、すぐ反応しない」
――はい。
「話しかけられても、毎回返事しない」
――分かっています。
「あと緊張しすぎ」
――初めてなので。
「座ってるだけでしょ」
その時。
家の前で足音がした。
招き猫は反射的にそちらを見そうになった。
「まだ」
先輩猫に止められる。
玄関の鍵が開く。
娘が家へ入ろうとして。
こちらに気づいた。
「あ」
足を止める。
招き猫の身体に緊張が走った。
――見ています。
「分かってる」
娘が塀へ近づいてくる。
「今日は二匹いる」
嬉しそうな声。
招き猫は返事をしたくなった。
けれど我慢する。
娘は先輩三毛猫を見る。
「友達?」
先輩猫は何も答えない。
当然のように前脚を舐めている。
招き猫も真似をしようとする。
ぺろ。
少しぎこちなかった。
娘は気づかなかったらしい。
「同じ三毛ちゃんだ」
今度は招き猫の方を見る。
目が合った。
――こんにちは。
そう言いたくなった。
我慢。
「初めまして」
娘が笑った。
招き猫は。
一拍だけ待ってから。
「にゃあ」
と鳴いた。
――初めまして。
「あ、返事した」
娘の顔が明るくなる。
しまった。
返事してしまった。
横から先輩猫の視線を感じる。
――一回だけです。
「にゃあ」
先輩猫も鳴いた。
娘がさらに笑う。
「二匹ともかわいいなあ」
それ以上近づこうとはせず。
「じゃあね」
と手を振って玄関へ向かった。
招き猫は思わずその背中を追いかけそうになった。
「待つ」
先輩猫の声で止まる。
――はい。
娘は玄関を開け。
中へ入り。
扉が閉まった。
しばらくして。
招き猫は大きく息を吐くような気持ちになった。
――どうでした。
「何が?」
――猫らしく見えましたか。
「まあ」
先輩三毛猫は少し考えた。
「ギリギリ猫」
――ギリギリ。
「返事したし」
――一回だけです。
「じっと見てたし」
――途中からです。
「毛づくろい下手だし」
――練習します。
三毛猫は少しだけ楽しそうに尻尾を揺らした。
「まあ、これから覚えればいいでしょ」
招き猫は、閉じた玄関扉を見る。
さっき。
娘は笑っていた。
たったそれだけ。
けれど、自分がそこにいたことで少しでも嬉しい気持ちになったのなら。
それも、小さな福なのかもしれない。
――また、一緒にいてもいいですか。
先輩三毛猫は招き猫を見た。
「仕方ないなあ」
そう言って。
少しだけ顔を背ける。
「あの子の前では、パートナーってことにしてあげるわ」
――パートナー。
「勘違いしないでよ」
先輩猫はすぐに付け加えた。
「あんた、ご飯も食べられないんだから」
――それとパートナーに何の関係が。
「細かいこと気にしない」
そう言って、先輩三毛猫は塀から軽やかに飛び降りた。
招き猫は、その後ろ姿を見送る。
家の中には、桐箪笥と鏡台。
家の外には、少しぶっきらぼうな先輩猫。
付喪神として目覚めてから。
気づけば、自分の周りには教えてくれる者が増えていた。
招き猫は、もう一度玄関を見る。
その向こうにいる娘へ。
ほんの少しずつ。
今度は自分から、もらったものを返していこうと思った。




