4.もう一度外へ
意識が戻った時。
招き猫は、玄関の棚の上にいた。
見慣れた天井。
見慣れた玄関。
いつもの場所。
けれど。
何かがおかしい。
身体が重い。
いや。
土でできた身体は、もともと動かない。
それなのに、ひどく疲れているような感覚だけが残っていた。
――戻った。
『……ようやく起きたか』
桐箪笥の声がした。
いつもより低い。
招き猫は少し身構えた。
――おはようございます。
『おはよう、ではない』
――え。
『お前さん、自分がどれだけ無茶をしたか分かっとるのか』
いきなり始まった。
――でも、ちゃんと戻ってきました。
『戻ってきた、じゃと?』
桐箪笥の声がさらに低くなる。
『あれは戻ったんじゃない。力尽きて、実体を保てなくなっただけじゃ』
――でも結果としては。
『結果として二日も起きんかった』
招き猫は固まった。
――二日?
『そうよ』
鏡台の声がした。
いつもの柔らかい声だった。
『あなた、丸二日ずっと何も返事しなかったの』
――丸二日。
招き猫は理解するまで少し時間がかかった。
自分では、ほんの少し意識が途切れただけのつもりだった。
『わしらがどれだけ呼んでも返事をせん』
桐箪笥が言う。
『家族が出入りしても、あの娘がお前さんの頭を撫でてもな』
――娘が。
『心配したのよ』
鏡台が静かに言った。
『この人もね』
『余計なことを言うな』
『だって本当でしょう』
『わしは、こんな無茶をする馬鹿者がおるとは思わんかっただけじゃ』
『それを心配って言うのよ』
『言わん』
招き猫は黙って二体のやり取りを聞いた。
桐箪笥は怒っている。
けれど。
今までとは少し違って聞こえた。
――すみませんでした。
二体が静かになった。
招き猫は続ける。
――帰れと言われたのに、もう少しだけと思って。
『まったくじゃ』
桐箪笥がすぐに返す。
『外へ出たばかりで、自分がどれだけ疲れとるかも分からんくせに』
――はい。
『本体から離れれば離れるほど力を使うと言ったじゃろ』
――はい。
『念話が途切れた時点で戻るべきじゃった』
――はい。
『それを角の向こうまで――』
『もうそのくらいでいいでしょう』
鏡台が止めた。
『本人も反省してるわよ』
『反省しておるならよいが』
桐箪笥はまだ不満そうだった。
『次に同じことをしたら、しばらく外出は禁止じゃ』
――誰が禁止するんですか。
『わしじゃ』
――箪笥なのに。
『なんじゃと』
『ふふ』
鏡台が笑った。
その声を聞いて、招き猫も少しだけ安心した。
『でも本当に、次は無理しちゃ駄目よ』
鏡台が言う。
『帰るための力は必ず残しておくこと』
――分かりました。
『疲れてから戻る、じゃ遅いの』
『まだ動けると思っているうちに戻れ』
桐箪笥も続けた。
――はい。
今度は素直に答えた。
◇
それから数日間。
招き猫は実体化しなかった。
正確には、桐箪笥と鏡台に止められた。
『まだ休め』
――もう大丈夫です。
『昨日も同じことを言っとった』
――昨日より大丈夫です。
『信用ならん』
そんなやり取りを繰り返し。
ようやく、短い時間なら試してもよいと言われた。
その夜。
招き猫はいつものように意識を集中する。
三毛猫の姿。
四本の脚。
長い尻尾。
柔らかな毛。
床。
そこへ形を作ろうとして。
ふと、思った。
――毎回、ここから歩いて外へ出る必要があるんでしょうか。
『何じゃ、急に』
桐箪笥が言う。
――この身体って、意識を形にしているんですよね。
『そうじゃな』
――なら、最初から玄関の外で形にすることはできないんですか。
少し沈黙があった。
『……できるかもしれんな』
――できるんですか。
『試したことがないから知らん』
――先に教えてください。
『わしは招き猫ではない』
『でも考え方は間違ってないと思うわ』
鏡台が言った。
『この前も、本体から意識を伸ばしていたでしょう?』
――はい。
『なら、少し先まで意識だけを伸ばして、そこで形を作ればいいんじゃないかしら』
――少し先。
『いきなり遠くは駄目じゃぞ』
桐箪笥がすぐに釘を刺す。
『本体から離れたところで形を作るなら、その分、最初から力を使うはずじゃ』
――玄関の外くらいなら?
『その程度から試せ』
招き猫は集中した。
いつもの玄関の床ではない。
扉の向こう。
毎日、家族を送り出している場所。
玄関先の石。
そこを思い浮かべる。
意識を少しだけ前へ。
扉を越えて。
その先へ。
そこで三毛猫の形を作る。
次の瞬間。
とん。
四本の脚に感触が戻った。
鼻を夜風が撫でる。
目の前には、閉じた玄関扉。
――外だ。
『聞こえる?』
鏡台の声がした。
――聞こえます。
『ほう』
桐箪笥も少し感心したようだった。
『本当に出られたか』
――できるなら最初からこうすればよかったです。
『だから、わしらも知らんと言っとるじゃろうが』
招き猫は玄関先を一周した。
前回のように窓を探し。
跳び上がり。
隙間を通る必要がない。
随分と楽だった。
――これなら毎回ここから出られます。
『調子に乗るな』
桐箪笥が即座に言う。
『さっきまで家の中で形を作るより、少し力を使った感じがせんか』
招き猫は意識を確かめた。
言われてみれば。
確かに、最初からほんの少し疲れている。
――します。
『なら覚えておけ』
『近い場所なら便利だけど、遠くへいきなり出るのはやめた方がよさそうね』
鏡台が言った。
『玄関先くらいがちょうどいいんじゃない?』
――分かりました。
『本当に分かったか?』
――今回は分かっています。
『今回は、というのが気になるのう』
◇
何度か練習するうちに。
玄関先へ直接実体化することにも慣れた。
実体化した瞬間の消耗。
歩いている時の消耗。
本体から離れるほど、少しずつ身体が重くなっていく感覚。
前回よりも、それが分かるようになった。
そして。
招き猫には、ずっと気になっていることがあった。
――あの三毛猫。
『まだ気にしとるのか』
桐箪笥が言った。
――目の前で消えてしまいましたから。
『あれは驚いたでしょうねえ』
鏡台が笑う。
――笑い事じゃないです。
『だって、猫から見たら突然現れた三毛猫が、話しかけた途端に消えたのよ』
――私だって驚いたんです。
『猫と話せることに?』
――はい。
あの時。
相手は確かに鳴いただけだった。
けれど、自分には言葉として意味が届いた。
付喪神同士の念話とは違う。
もっと直接的で。
鳴き声や気配そのものが、自然と意味に変わるような感覚。
『猫の姿を取っておるからじゃろう』
桐箪笥が言った。
『その姿で分かることも増えたんじゃないか』
――もう一度話してみたいです。
『また外へ行く気か』
――はい。
桐箪笥は返事をしなかった。
招き猫は少し待った。
――駄目ですか。
『駄目と言っても行くじゃろ』
――今回はちゃんと戻ります。
『前回も似たようなことを言っとった気がするが』
『でも、このままじゃ相手の猫も気になるでしょう』
鏡台が助け舟を出した。
『目の前で消えた理由くらい、説明してあげたら?』
――付喪神だって言っていいんでしょうか。
『そこまで言う必要はない』
桐箪笥が答えた。
『そもそも普通の猫に付喪神が分かるかどうかも知らん』
『まずは謝ればいいのよ』
鏡台が言う。
『びっくりさせてごめんなさい、って』
――分かりました。
『それとな』
桐箪笥の声が少し強くなる。
『今回は念話が弱くなり始めたら、そこで止まれ』
――はい。
『まだ余裕があるうちに戻れ』
――はい。
『知らん道へ勝手に入るな』
――はい。
『犬に近づくな』
――はい。
『車にも――』
『もうお父さんみたいになってるわよ』
『誰がお父さんじゃ』
招き猫は少し笑った。
◇
夜。
招き猫は玄関先に三毛猫の姿を作った。
夜風。
土の匂い。
遠くを走る車の音。
前回と同じ外。
けれど。
今日は少しだけ違って見える。
怖さを知っている。
疲れることも知っている。
戻れなくなるかもしれないことも知った。
それでも。
もう一度、行ってみたいと思った。
『聞こえとるぞ』
桐箪笥の声がする。
――分かってます。
『ちゃんと帰ってきてね』
鏡台が言った。
――はい。
招き猫は歩き出した。
前回よりゆっくり。
周りを見ながら。
門を抜ける。
道へ出る。
一歩。
また一歩。
家から離れる。
今回は自分の中の疲れを意識していた。
まだ大丈夫。
まだ軽い。
桐箪笥たちの声もはっきり聞こえる。
数軒先。
『どうじゃ』
――大丈夫です。
『その大丈夫は前より信用できそうね』
鏡台が言った。
もう少し進む。
声が少しだけ遠くなる。
前回なら、そのまま勢いで歩いていた。
今日は一度立ち止まる。
身体の重さを確かめる。
まだ余裕はある。
帰る力も残っている。
招き猫は再び歩き出した。
前回の角が見えてきた。
『……そろそろ……遠いぞ』
桐箪笥の声が少しぼやける。
――ここで止まります。
『ほう』
少し感心された。
『成長したわねえ』
鏡台の声が笑っている。
招き猫は角の手前で待った。
あの三毛猫はいるだろうか。
周囲を見る。
いない。
塀の上にも。
道路の端にも。
植え込みの陰にも。
しばらく待つ。
何も起こらない。
――今日は、いないみたいです。
『なら帰ってこい』
桐箪笥が言う。
――そうします。
少し残念だった。
でも。
今日は無理をしないと決めた。
招き猫は家の方へ身体を向ける。
その時。
「ねえ」
背後から声がした。
招き猫は振り返った。
塀の上。
白。
黒。
茶。
三色の猫が、こちらをじっと見下ろしている。
――いた。
三毛猫は前回と同じように、軽やかに塀から飛び降りた。
招き猫の前まで歩いてくる。
そして。
しばらく無言で、こちらを見つめた。
招き猫は少し気まずくなる。
――あの。
「あんた」
三毛猫が言った。
「この前、私の目の前で消えたやつでしょ」
――覚えてた。
「忘れるわけないでしょ」
三毛猫は呆れたように尻尾を振った。
「猫が突然消えるなんて、初めて見たんだから」




