3.はじめての外
それから数日。
招き猫は、家族が寝静まるたびに三毛猫の姿になった。
最初の夜は、玄関を数歩歩いただけで力尽きた。
二日目は、廊下まで。
三日目には、階段の下まで行って戻ってこられるようになった。
『右前脚。次は左後ろじゃ』
桐箪笥の声が飛ぶ。
――分かってます。
『分かっとる奴は、さっき自分の尻尾を踏まん』
招き猫は黙った。
『ふふ。随分上手になったじゃない』
鏡台が笑う。
――もう外へ行っても大丈夫ですよね。
『まだじゃ』
桐箪笥が即答した。
――昨日もそう言いました。
『昨日もまだじゃったからな』
――今日は昨日より歩けます。
『歩けることと、外を歩けることは違う』
招き猫には、その違いがよく分からなかった。
家の中も外も、四本の脚で歩くことに変わりはないはずだ。
『外には車もおるし、犬もおる』
『人間だっているわよ』
鏡台も言う。
『あなた、自分が普通の猫に見えるってことを忘れないでね』
――普通の猫なら、外を歩いていても問題ないのでは?
『そういうところが心配なんじゃ』
桐箪笥は呆れていた。
招き猫自身は、かなり上達したつもりだった。
四本の脚はもう絡まらない。
尻尾も、なんとなくだが動かし方が分かってきた。
走ることだってできる。
もっとも、一度勢いよく走って廊下の角を曲がりきれず、壁へ激突してからは控えていた。
実体化していられる時間も、少しずつ長くなっている。
初日はほんのわずかだったのに、今では家の中をしばらく歩き回っても、すぐには疲れなくなった。
ただし。
『本体から離れるほど、力を使うようじゃな』
ある夜、桐箪笥が言った。
――分かるんですか。
『階段の下まで行った時と、玄関におる時では消耗が違うじゃろ』
言われてみれば、その通りだった。
本体である招き猫は玄関の棚にある。
そこから遠ざかるほど、三毛猫の身体を保つのが少しだけ難しくなる。
『糸みたいなものかもしれないわね』
鏡台が言った。
――糸?
『あなたと本体を繋いでいる、見えない糸。遠くへ伸ばせば、それだけ力が要るんじゃないかしら』
『どこまで行けるかは、まだ分からん』
桐箪笥が続ける。
『無理をするでないぞ』
――分かりました。
『今の返事は信用ならんのう』
招き猫は聞こえなかったふりをした。
◇
昼間も、三体はよく話すようになった。
家族がいる間は実体化こそしなかったが、念話なら問題ない。
父親が慌ただしく家を出れば、
『また財布を忘れそうじゃな』
と桐箪笥が言い。
母親が鏡の前で髪を整えていれば、
『今日は少し疲れてるわね』
と鏡台が呟く。
娘が玄関を出る時には、招き猫が、
――気をつけて。
と声をかける。
聞こえないと分かっていても、毎日そうするようになった。
ある日の夕方。
娘が帰ってくるなり、玄関先で足を止めた。
「あ、いた」
招き猫は何事かと思った。
娘は扉を半分開けたまま、外を見ている。
視線の先。
門の近くに、一匹の三毛猫が座っていた。
「今日も来てたんだ」
娘が嬉しそうに笑う。
例の野良猫だった。
白い身体に、黒と茶の模様。
招き猫が実体化する時、無意識に思い浮かべた猫。
三毛猫は娘を見たあと、ゆっくり瞬きをした。
「じゃあね」
娘も小さく手を振って、玄関を閉めた。
――あの猫。
『どうしたの?』
鏡台が尋ねる。
――近くで見てみたいです。
『ほら始まった』
桐箪笥が言った。
――だって、私がこの姿になったきっかけですよ。
『だからといって、いきなり近づく必要もなかろう』
――外に出れば、会えるかもしれません。
『外へ出たいだけじゃろ』
図星だった。
◇
その日の夜。
最後の明かりが消えてから、招き猫は三毛猫の姿になった。
もう実体化そのものには慣れてきた。
とん、と床へ降り立つ。
四本の脚に力を入れる。
問題ない。
尻尾も動く。
『本当に行くのね』
鏡台が言った。
――はい。
『玄関の前までじゃ』
桐箪笥が念を押す。
――少しくらい歩いても。
『まず外へ出てから言え』
確かに、まだ一度も玄関の外へ出たことがない。
招き猫は扉の前に立った。
そして止まる。
――開きません。
『当たり前じゃ』
桐箪笥が言った。
招き猫は扉を見上げた。
人間なら簡単に届く取っ手が、猫の身体では遥か上にある。
――どうすれば。
『そこから?』
鏡台が笑った。
――笑わないでください。
『人間が開けた時に出るしかないじゃろうな』
桐箪笥が答える。
――でも、みんな寝ています。
『勝手口の方は?』
鏡台が言う。
――勝手口。
『今日はお母さんが少しだけ窓を開けていたでしょう。暑いって』
招き猫は思い出した。
台所の小さな窓。
網戸になっていたはずだ。
――あそこから出られますか。
『猫なら何とかするんじゃない?』
鏡台の言葉は随分と適当だった。
招き猫は台所へ向かった。
廊下を進み。
家族を起こさないように、静かに歩く。
台所へ入ると、確かに窓が少し開いていた。
ただし。
高い。
――届きません。
『猫なら跳べ』
桐箪笥の声が聞こえる。
――跳んだことありません。
『外へ行くんじゃろ』
招き猫は覚悟を決めた。
床に身体を沈める。
猫が跳ぶところなら何度も見てきた。
後脚に力を入れて。
上へ。
――今。
跳んだ。
思っていたより遥かに高く身体が浮いた。
――うわ。
『声を出すな』
声には出していない。
それでも驚いた。
なんとか台の上へ着地する。
少し滑ったが、落ちなかった。
そこから窓までは近い。
網戸の端に、わずかな隙間があった。
鼻先を押し込む。
少しずつ身体を通す。
そして。
招き猫は、初めて家の外へ出た。
◇
最初に感じたのは、風だった。
家の中でも風は知っている。
玄関が開けば吹き込むこともある。
けれど、これはまるで違った。
身体中の毛の間を、夜の風が通り抜ける。
鼻に、いくつもの匂いが入ってきた。
土。
草。
どこかの家の夕食の残り香。
車。
人。
知らない猫。
あまりに多くて、何が何だか分からない。
――外って。
『どうした?』
桐箪笥の声が届いた。
――匂いが多いです。
『猫の鼻だからじゃない?』
鏡台が笑う。
――家の中とは全然違います。
『そりゃそうじゃろう』
招き猫は庭へ降りた。
土を踏む。
柔らかい。
玄関の床とも、廊下とも違う。
一歩。
また一歩。
草が肉球に触れる。
聞こえる音も多かった。
遠くを走る車。
虫の声。
どこかで閉まる扉。
犬の鳴き声。
招き猫は思わず止まった。
『犬くらいで止まるな』
――近くにいますか。
『わしに聞かれても分からん』
確かに。
桐箪笥は家の中にいる。
招き猫は慎重に門へ向かった。
『そこまでにしておきなさい』
鏡台が言う。
――まだ疲れてません。
『疲れてから戻るんじゃ遅いんじゃ』
桐箪笥の声が飛んでくる。
――少しだけ。
門を抜けた。
家の前の道。
何度も玄関から見た場所だ。
けれど、自分の脚で立ってみるとまるで違う。
世界が低い。
道路が広い。
家々が大きい。
招き猫は振り返った。
自分が九十九年間いた家がある。
あんなに大きかったのか。
『まだ聞こえとるぞ』
桐箪笥が言った。
――分かっています。
『なら戻ってこい』
――もう少しだけ。
『まったく』
招き猫は道を進んだ。
数軒先。
まだ桐箪笥と鏡台の声は聞こえる。
『聞こえる?』
鏡台が尋ねる。
――はい。
もう少し。
『……どうじゃ』
――聞こえます。でも、少し遠いです。
声そのものが小さくなったわけではない。
ただ、何か一枚挟まったように感じる。
招き猫はさらに歩いた。
角が見える。
『そろそろ……戻れ』
桐箪笥の声が少しぼやけた。
――大丈夫です。
『だから……その返事は……』
途切れる。
招き猫は足を止めた。
――箪笥さん?
返事はない。
――鏡台さん。
『……気を……つけ……』
それきり。
静かになった。
招き猫は振り返った。
家はまだ見える。
ほんの少し歩いただけだ。
それなのに。
初めて、一人になった。
胸の辺りが妙に落ち着かない。
帰ろうか。
一瞬、そう思った。
けれど。
ここまで来た。
角の向こうだけ。
見てみたい。
招き猫はゆっくり歩き出した。
角を曲がる。
そこには、誰もいなかった。
道路。
塀。
植木。
夜の住宅街。
――何もない。
少し拍子抜けした。
その時。
背後で、何かが動いた。
招き猫は飛び上がりそうになった。
振り返る。
塀の上。
一匹の猫が座っていた。
白。
黒。
茶。
見覚えのある三色。
――あ。
娘がいつも見ている三毛猫だった。
昼間、家の前にいた猫。
招き猫が姿を借りる時に思い浮かべた猫。
向こうも、こちらをじっと見ている。
招き猫は少し気まずくなった。
同じ三毛猫。
しかも、自分は相手の姿を参考にしている。
似ていると思われるだろうか。
三毛猫は塀の上から軽やかに飛び降りた。
音もほとんどしない。
招き猫は少し感心した。
自分なら、あんな着地はまだできない。
三毛猫は数歩近づき。
鼻を動かした。
招き猫の匂いを嗅いでいるらしい。
やがて、首を傾げた。
「新入り?」
招き猫は固まった。
猫は確かに鳴いただけだった。
そう聞こえたはずなのに。
意味が、はっきり分かった。
――今、喋った?
「なに?」
もう一度、三毛猫の声が意味を持って届く。
――猫と、話せる?
その瞬間だった。
身体から、すっと力が抜けた。
――あ。
まずい。
家から離れすぎた。
外へ出た興奮と、初めて一人になった緊張で気づかなかったが、実体を保つ力はもうほとんど残っていない。
「ちょっと、あんた――」
三毛猫が何か言った。
けれど、最後まで聞くことはできなかった。
視界が揺れる。
四本の脚の感覚が薄れていく。
そして。
三毛猫の姿は、夜道から忽然と消えた。
残された三毛猫は、しばらく何もない場所を見つめていた。
「……何、今の」




