2.小さな恩返し
翌朝。
玄関には、いつものように家族の足音が集まってきた。
「行ってきます」
最初に父親が靴を履き、扉を開ける。
続いて母親が鞄を肩に掛けた。
「今日、帰り遅くなるかも」
「はーい」
二階から返事が聞こえ、しばらくして娘も降りてくる。
十八歳になったばかりの娘は、まだ少し眠そうな顔をしていた。
「行ってきます」
そう言いながら靴を履く。
そして玄関を出る直前、いつものように招き猫の頭を指先で撫でた。
「留守番よろしく」
――任せてください。
もちろん、娘には聞こえない。
扉が閉まる。
家の中が静かになった。
招き猫は玄関の棚の上から、閉じられた扉を見つめた。
昨日までも、こうして家族を見送ってきた。
けれど今日は少し違う。
行ってらっしゃい。
気をつけて。
無事に帰ってきてほしい。
そんなことを、自分の意思で考えている。
それだけのことが、不思議だった。
『ずいぶん張り切っとるのう』
突然、桐箪笥の声がした。
招き猫は驚いた。
――え。
『なんじゃ』
――昼間でも話せるんですか。
一瞬の沈黙。
『誰が夜だけと言った』
桐箪笥の呆れた声が返ってくる。
『昨日は、あなたが一日中考え込んでいたでしょう?』
鏡台の声も聞こえてきた。
『私たちがちゃんと話し始めたのが、たまたま夜だっただけよ』
――そうだったんですか。
『付喪神同士なら、昼でも夜でもこうして話せる』
『人間には聞こえないから、そこは気にしなくていいわ』
招き猫は少し安心した。
これなら、分からないことがあればいつでも聞ける。
――じゃあ、猫の姿になるのも昼間でいいんですか。
『それはやめておけ』
桐箪笥が即答した。
――なぜですか。
『人間に見つかるじゃろうが』
『念話と違って、形になれば見えるものね』
鏡台も同意する。
『練習するなら、家族が寝静まってからの方がいいわ』
――なるほど。
『まずは歩くところからじゃぞ』
――まだ猫にもなっていません。
『だから言っとる』
招き猫は少しだけむっとした。
『その様子なら、今夜には勝手に試すじゃろうな』
『その前に、もう少し教えてあげた方がよさそうね』
鏡台が楽しそうに言った。
招き猫は、その言葉で昨日から気になっていたことを思い出した。
――そうだ。
『何じゃ』
――二人は普段、家族のために何をしているんですか。
『何を、とは?』
――昨日、少し手を貸すくらいでいいと言っていたでしょう。
『ああ』
『なるほど』
鏡台が声を弾ませる。
『私たちが何をしているのか知りたいのね』
――はい。
少しの間を置いて、桐箪笥が答えた。
『大したことはしとらんよ』
――例えば?
『中に入れられた衣類を、少しでも良い状態に保つ』
招き猫は待った。
それだけだった。
――……それだけですか。
『なんじゃ、その間は』
――いえ。
『大事なことじゃぞ』
桐箪笥は少し不満そうだった。
『湿気もあれば虫もおる。長く仕舞えば布は傷む。わしの中にある間くらい、少しでも良い状態にしてやる』
――なるほど。
『それとな』
桐箪笥が続ける。
『人間は、服のポケットへ物を入れたままよく忘れる』
――ありますね。
『鍵やら、小銭やら、紙切れやら。探しているようなら、次にその服を触った時、見つけやすいところへ少し動かすことはある』
――物を動かせるんですか。
『ほんの少しじゃ。ポケットの奥から、入口の近くへ転がす程度じゃよ』
それでも、なくしたと思っていた物が見つかれば、人間は喜ぶだろう。
『あとは、その日に合う服へ意識が向くようにすることもある』
――その日に合う?
『寒い日に薄着を選びそうなら、もう少し暖かい服へ手が伸びるようにな』
『この人、結構世話焼きなのよ』
鏡台が割って入った。
『今日はこっちがいいぞ、って』
『そこまで露骨にはやっとらん』
『お気に入りの中から、なんとなく良さそうな服を選ばせてるじゃない』
『本人が選んどる』
『少しだけ背中を押してるんでしょう?』
『……少しだけじゃ』
招き猫は妙に納得した。
桐箪笥は、やはりおじいちゃんのようだった。
――鏡台さんは?
『私はそうねえ』
鏡台は少し考えた。
『その人の気分に合わせて、ほんの少し映り方を変えるわ』
――映り方?
『朝から落ち込んでいる日に、鏡までひどい顔を見せたら余計に嫌になるでしょう?』
――確かに。
『だから、少しだけ良く見えるようにするの』
『誤魔化しじゃ』
桐箪笥が言う。
『失礼ね』
鏡台の声がむっとした。
『嘘を映しているわけじゃないのよ。光を少し柔らかくしたり、顔色が良く見えるようにしたりするだけ』
――それで?
『鏡を見た人が「あ、今日の私、ちょっといいかも」って思えたら、それで十分でしょう』
招き猫は想像してみた。
確かに、それだけで少し気分の良い朝になるかもしれない。
『大事な日なら、自信が持てるように映すこともあるわ』
鏡台が続ける。
『お化粧のノリを少し良くしてあげたり、髪の乱れに気づきやすくしてあげたりね』
――お化粧のノリまで。
『女の子には大事なのよ』
『昔からそればかりじゃ』
『昔から大事なの』
桐箪笥は黙った。
二体とも、自分が想像していたような大きな力を使っているわけではない。
病気を治すわけでもない。
大金を呼び込むわけでもない。
未来が見えるわけでもない。
――小さいんですね。
『そうじゃな』
桐箪笥はあっさり認めた。
『でもね』
鏡台が言う。
『朝、鏡を見て少し気分が良くなったり。なくしたと思っていた物が見つかったり。お気に入りの服が長く着られたり』
柔らかな声だった。
『それだって、その人にとっては小さな福でしょう?』
招き猫は黙った。
小さな福。
その言葉が妙に心に残った。
『わしらにできることは限られとる』
桐箪笥が言う。
『じゃが、それで十分じゃ』
『長いこと大切にしてもらったもの』
鏡台が続ける。
『できる範囲で返しているのよ』
――返す?
『恩返しじゃな』
桐箪笥が答えた。
その言葉に、招き猫は自分の過去を思い出す。
埃を払ってもらった。
欠ければ直してもらった。
引っ越しのたびに丁寧に包まれた。
戦争もあった。
家も、人も変わった。
それでも、自分はここにいる。
――私も。
『なんじゃ』
――私も、恩返しがしたいです。
『すればよい』
桐箪笥は簡単に答えた。
『いきなり大きな福を招こうなどと考えんことじゃ』
『まずは、小さなことからね』
鏡台が言う。
招き猫は、玄関の向こうを思った。
今頃、娘はどこで何をしているのだろう。
楽しく過ごしているだろうか。
困ってはいないだろうか。
少しでも手を貸せたら。
ほんの少しでも、良い一日にできたら。
それでいいのかもしれない。
◇
夕方。
「ただいまー」
玄関の扉が開いた。
帰ってきた娘は、靴を脱ぐ前に大きく息を吐いた。
「疲れた……」
いつもより肩が下がっている。
招き猫は思わず声をかける。
――大丈夫ですか。
当然、聞こえない。
娘は招き猫の頭を撫で、
「今日もお留守番ありがと」
と言って家の奥へ消えた。
『元気がないわね』
鏡台が言った。
――分かるんですか。
『今朝、私の前に座った時から少しね』
『人間には人間の色々がある』
桐箪笥が言う。
『何でも首を突っ込むでないぞ』
――でも、何かできるなら。
『今のお前さんには、まだ何ができるかも分からん』
その通りだった。
招き猫は少し悔しかった。
やがて母親が帰り。
少し遅れて父親も帰ってきた。
夕食の匂いが家に満ちる。
家族の話し声が聞こえる。
娘の笑い声も、一度だけ聞こえた。
それを聞いて、招き猫は少し安心した。
夜が更ける。
風呂の音が消え。
廊下を歩く足音もなくなる。
最後の明かりが消えた。
『さて』
鏡台が言った。
『待ちきれない子が一匹いるみたいね』
――猫になる方法を教えてください。
『やっぱりな』
桐箪笥が呆れた。
『昨日も言ったでしょう?』
鏡台が言う。
『自分に一番馴染む姿を思い浮かべるの』
――猫。
『そう』
――でも、猫と言われても。
『本物を見たことくらいあるじゃろ』
もちろんある。
玄関先を横切った猫。
庭へ入り込んだ猫。
塀の上で昼寝をしていた猫。
いくつも見てきた。
けれど、どんな猫になればいいのだろう。
『頭で決めようとするから分からんのじゃ』
桐箪笥が言った。
『なりたい姿ではなくて』
鏡台が続ける。
『あなたが猫と聞いて、一番最初に思い出す子は?』
招き猫は考えた。
猫。
すると、一匹の姿が浮かんだ。
白。
黒。
茶色。
三つの色が混じった猫。
家の近くをよく歩いている野良の三毛猫だった。
娘が窓の外にその姿を見つけるたび、
「今日もいる」
と嬉しそうに眺めている。
時には玄関先に座っていることもある。
娘は勝手に名前までつけているらしく、見かければ嬉しそうに声をかけていた。
――三毛猫。
『そう。その姿を思い浮かべてみなさい』
招き猫は意識を集中した。
四本の脚。
長い尻尾。
尖った耳。
柔らかな毛。
娘が好きな三毛猫。
三毛猫。
三毛猫。
自分は猫。
何も起こらない。
――できません。
『早い』
『まだ十秒も経っとらん』
もう一度。
今度は、自分の姿を作ろうとするのをやめた。
娘が嬉しそうに見つめていた三毛猫だけを思い浮かべる。
すると。
身体が軽くなるような感覚がした。
いや。
身体は、玄関の棚の上にある。
それなのに、別の場所にも自分がいるような。
意識だけが、ゆっくりと本体から伸びていく。
『そのまま』
鏡台の声が聞こえる。
『無理に形を作らなくていいわ』
『床を意識せい』
桐箪笥の声もする。
――床?
『猫が宙に浮いてどうする』
確かに。
招き猫は玄関の床を意識した。
次の瞬間。
とん。
何かが床に着いた。
四本の脚。
肉球。
長い尻尾。
棚の上にある本体とは、まるで違う感覚。
恐る恐る下を見る。
白い前脚。
茶色と黒の模様。
尻尾を動かそうと思った。
動いた。
――動いた。
一歩。
また一歩。
歩ける。
『まあ』
鏡台が嬉しそうな声を出した。
『可愛いじゃない』
『本当に三毛になりおったか』
桐箪笥が言う。
招き猫は、自分の本体を見上げた。
玄関の棚には、いつもの小さな招き猫がいる。
そして床には、三毛猫になった自分がいる。
――不思議です。
『意識に形を与えて、こちらへ出しとるようなもんじゃな』
桐箪笥が説明する。
『本体はあくまで、あそこにある招き猫じゃ』
難しい。
けれど、今はそれよりも。
歩ける。
外へ行ける。
その事実の方が嬉しかった。
『あら』
鏡台が言った。
――何ですか。
『あなた、男の子ね』
招き猫は止まった。
――男の子?
『ええ』
『ほう』
桐箪笥も少し感心したような声を出す。
『三毛の雄とは、また珍しい姿になったもんじゃ』
――珍しい?
『三毛猫の雄は滅多におらんらしいぞ』
招き猫は自分の身体を見下ろした。
――そうなんですか。
『自分でなったくせに知らんのか』
――三毛猫になろうとは思いました。でも、雄になろうとは思っていません。
『全部を自分で決めるものでもないのよ』
鏡台が言った。
『付喪神の姿には、その心に染み込んだものも出るみたいだから』
――私に染み込んだもの。
遠い声が蘇る。
『……家族を頼んだぞ』
なぜか、それ以上尋ねる必要はないような気がした。
招き猫は四本の脚で立ち、もう一度本体を見上げる。
昨日まで。
玄関から家族を見送ることしかできなかった。
けれど今は、一歩。
また一歩。
自分の意思で進むことができる。
嬉しくなって、さらに歩いた。
一歩。
二歩。
少しずつ四本の脚の動かし方も分かってくる。
廊下の手前まで行き、向きを変え、また玄関へ戻る。
もう一度。
今度は少し速く。
『調子に乗るでないぞ』
桐箪笥が言った。
――大丈夫です。
そう答えて、さらに一歩踏み出した時だった。
突然、身体が重くなった。
――あれ。
前脚に力が入らない。
ついさっきまで軽かった身体が、急に鉛のように感じる。
一歩進もうとして、脚がもつれた。
ぺたり。
三毛猫は玄関の床に腹をつけた。
『ほれ見ろ』
桐箪笥が呆れたように言う。
――何ですか、これ。
『疲れたのよ』
鏡台の声がした。
――疲れる?
『当然じゃ』
桐箪笥が答える。
『何もないところへ意識を形にして、触れる身体まで作っとるんじゃぞ。力を使わんわけがなかろう』
招き猫は初めて知った。
付喪神にも、疲れるという感覚があるらしい。
それも、思っていた以上に重い。
『慣れれば、もう少し長く保てるようになるわ』
鏡台が言う。
『でも最初から無理をしちゃ駄目』
――まだ歩けます。
『その台詞は、まともに立ってから言え』
招き猫は立ち上がろうとした。
前脚が震えた。
――……少し休めば。
『今日は終わりじゃ』
――でも。
『戻れ』
桐箪笥の声は、いつもより少し強かった。
『その身体はお前さんの力で保っとる。無理をすれば、勝手に解けるぞ』
――勝手に?
答えを聞くより先だった。
ふっと。
身体の感覚が消えた。
四本の脚も。
肉球も。
尻尾も。
床にいた三毛猫の姿が、霞むように消える。
次の瞬間。
招き猫の意識は、玄関の棚の上へ戻っていた。
見慣れた場所。
動かない土の身体。
少し前まで床を歩いていたことが、夢だったように感じる。
――戻った。
『言ったじゃろう』
『初めてにしては上出来よ』
鏡台が優しく言った。
招き猫は不思議な感覚の中にいた。
猫の身体は消えた。
それでも、疲れた感じだけはしっかり残っている。
――これ、休めば治るんですか。
『そのはずじゃ』
『今日はもう大人しくしてなさい』
――じゃあ、明日は外へ。
『気が早い』
『まずは玄関で転ばなくなってからね』
二体に同時に止められた。
招き猫は少し不満だった。
けれど。
動けた。
ほんの短い間でも。
玄関の棚から降りて、自分の意思で歩くことができた。
娘に何ができるのか。
まだ分からない。
福を招く方法も分からない。
けれど。
まずは、小さなことから。
大切にしてもらった分だけ。
ほんの少しずつ返していけばいい。
そして、そのために。
まずは、あの四本の脚でまともに歩けるようにならなければならないらしい。
その夜。
玄関の棚の上で休む小さな招き猫を、二体の古い付喪神が静かに見守っていた。




