1.付喪神として
――私が、この子に福を招こう。
そう決めたはいいものの。
招き猫は、すぐに困った。
福を招く。
自分はそのために作られた。
九十九年前、あの男もそう言っていた。
『お前、福を招くんだったな』
ならば、これまでもきっと何かをしてきたのだろう。
そう思って過去を探ってみる。
けれど、出てくるのは人の手の温かさや、家族の声ばかりだった。
子どもが生まれた。
誰かが結婚した。
誰かが泣いた。
誰かが笑った。
家族は増え、年老い、また新しい家族が増えた。
その間、自分はずっと玄関にいた。
では、そのうちのどれが自分の招いた福だったのだろう。
まるで分からない。
そもそも、自分は何をしていた?
考えてみても答えは出なかった。
当然だった。
昨日までの自分には、考えるための心などなかったのだから。
それでも招き猫は考え続けた。
福とは何だ。
金が増えることか。
病気をしないことか。
良い人と出会うことか。
美味しいものを食べることか。
あの娘は、何を幸せだと思うのだろう。
そんなことを考えているうちに、家の中は静かになっていった。
風呂の音が消えた。
廊下を行き来していた足音もなくなった。
最後に二階の扉が閉まり、それきり何も聞こえなくなる。
家族が寝静まったらしい。
招き猫は玄関の棚の上で、なおも考え続けていた。
『考えたところで、分からんものは分からんぞ』
突然、声がした。
招き猫は驚いた。
誰だ。
『こっちじゃ、こっち』
年老いた男のような声だった。
だが、玄関には誰もいない。
扉も閉まっている。
『声に出さんでも聞こえる』
また声がする。
『心の中で返事をすればよい』
招き猫は戸惑いながら、試しに問いかけた。
――誰ですか。
『ようやく返事をしたか』
声はどこか呆れたようだった。
『右じゃ』
言われるまま、意識を向ける。
玄関から続く廊下の先。
和室の隅に、古い桐箪笥が置かれている。
招き猫は、その箪笥を知っていた。
自分がこの家へ来た時には、すでにそこにあった。
――まさか。
『その、まさかじゃよ』
桐箪笥が答えた。
『ようやく起きたか。ずいぶんとのんびりしたもんじゃ』
招き猫は何も言えなかった。
すると今度は、少し離れた部屋から女の声がした。
『そんな言い方しなくてもいいでしょう。目覚めたばかりなんだから』
柔らかい声だった。
招き猫がそちらへ意識を向ける。
今ではほとんど使われなくなった部屋に、古い鏡台が置かれている。
『おはよう、でいいのかしら』
鏡台は楽しそうに言った。
『ずっと待っていたのよ』
――あなたも?
『もちろん』
鏡台は当然のように答えた。
『私たちは、あなたより少し先輩なの』
『少しではない』
桐箪笥が割り込んだ。
『お前さんがあの二人に抱えられてこの家へ来るより、わしらは十年ほど前から一緒じゃ』
『十年くらい、私たちには誤差でしょう』
『十年は十年じゃ』
『はいはい』
二つの声のやり取りに、招き猫はますます混乱した。
――二人とも、付喪神なんですか。
『そういうことじゃ』
桐箪笥が答える。
『長く使われ、大切にされておれば、物にも心が宿ることがある』
『必ず、というわけではないみたいだけどね』
鏡台が付け足した。
『気づいたら、こうして考えるようになっていたの』
――人間には聞こえないんですか。
『聞こえん』
『私たち同士なら、こうして話せるけれどね』
招き猫は少し考えた。
それから、ふと別の疑問が浮かんだ。
――でも。
『なんじゃ』
――どうして箪笥さんは男の人みたいで、鏡台さんは女の人みたいなんですか。
一瞬、沈黙があった。
『そこが気になるのか』
桐箪笥が呆れたように言った。
『いいじゃない。目覚めたばかりなら気になるでしょう』
鏡台は楽しそうだった。
『付喪神の心ってね、物の形だけで決まるわけじゃないのよ』
――形だけじゃない?
『長く何に使われて、誰と過ごしてきたか。そういうものが少しずつ染み込むみたい』
鏡台が続ける。
『私は、あの人がまだ嫁入りする前から顔を映してきたの』
あの人。
招き猫には、それが九十九年前の妻を指しているのだと分かった。
『嫁入りの日も、新婚だった頃も。娘が生まれたあともね。やがてその娘が大きくなって、そのまた娘が私の前に座るようになった』
鏡台は少し懐かしそうに言った。
『ずっと、この家の女たちを見てきたのよ』
『わしは夫婦の着物を預かっておった』
今度は桐箪笥が言う。
『あの男の羽織も、礼服もな。子が生まれれば、その小さな着物も入った。時が経てば、婿の物も入った』
そこで桐箪笥の声が、ほんの少しだけ低くなった。
『……あの男の着物も、帰ってこんかったあとまで、しばらくわしが預かっとったよ』
招き猫の中に、古い声が蘇る。
『……家族を頼んだぞ』
鏡台が静かに続けた。
『だから、この人はこんなおじいさんみたいになったのかもしれないわね』
『余計なことを言うな』
『ほら、そういうところ』
招き猫は、妙に納得した。
――じゃあ、私の心も。
『そうじゃろうな』
桐箪笥が答える。
『お前さんも、長いことこの家の者たちと一緒におった』
『ずっと福を願われてきたでしょう?』
鏡台が言う。
『大切にされて、頭を撫でられて。あの人には家族まで託された』
招き猫は黙った。
自分が目覚めて最初に考えたこと。
娘に福を招きたい。
なぜ、あれほど自然にそう思ったのか。
答えの一つが、少しだけ分かった気がした。
――じゃあ、付喪神になるとできることも、同じなんですか。
『同じ?』
――何に使われてきたかで、できることも変わる?
『おそらくな』
桐箪笥が答えた。
『わしなら、中に入れられた物のことはだいたい分かる。どこへ仕舞ったか忘れられた程度なら、覚えておる』
『私は人を見るのが少し得意ね』
鏡台も続ける。
『長く映している人なら、顔を見れば気分くらいは分かるわ。嬉しいとか、悲しいとか、何か隠しているとか』
――では私は?
『招き猫じゃろ』
――だから、福を招く?
『たぶんな』
招き猫は固まった。
――たぶん。
『先輩なら何でも知っておると思うな』
桐箪笥はあっさりしていた。
『自分のことは自分で知れ』
『この人も、自分が何をできるのか分かるまで結構かかったのよ』
『余計なことを言うな』
『本当でしょう』
招き猫は、自分の中を探った。
何かできるような気はする。
昨日までとは違う。
ただ玄関に座っているだけではない、何か。
けれど、それが何なのかは分からない。
――私は、今まで何もしてこなかったんでしょうか。
二体が静かになった。
招き猫は続ける。
――あの人に家族を頼まれたのに。
返事をしたこともない。
願ったことすらない。
ただ置かれていただけだ。
『そうかの』
桐箪笥が言った。
――え?
『あの男が帰らんかったあとも、この家族は続いた』
その声は、先ほどまでよりずっと穏やかだった。
『娘は育った。孫が生まれた。そのまた子も生まれた。そして今、あの娘がおる』
『あなたは、その間ずっと玄関にいたでしょう』
鏡台も言う。
――でも、それは私が。
『お前さんのおかげだったかどうかなど、誰にも分からん』
桐箪笥が遮った。
『じゃが、何もしてこなかったと決めつける必要もあるまい』
招き猫は黙った。
人は昔から、招き猫に福を願ってきた。
もしかすると。
ただそこにいて、願いを受け続けることにも意味があったのかもしれない。
確かめる術はなかった。
『福なんてものはな』
桐箪笥が言った。
『わしらが作って人間に渡してやるものではないのかもしれんぞ』
――どういうことですか。
『人間は勝手に笑うし、勝手に泣く。勝手に恋をして、勝手に悩んで、それでも生きていく』
『私たちにできるのは、ほんの少し手を貸すくらいじゃないかしら』
鏡台が続けた。
『転びそうなら、少しだけ支えてあげる。迷っていたら、ほんの少し背中を押してあげる。そのくらいで十分よ』
招き猫は、昼間の娘を思い浮かべた。
十八歳になったばかりの娘。
いつも自分の頭を撫でてくれる。
――それなら。
『なんじゃ』
――あの子が困っていたら、私も少しだけ手を貸したい。
『そうすればよい』
桐箪笥は簡単に答えた。
招き猫は少し嬉しくなった。
そしてすぐに、重大な問題に気づいた。
――でも。
『今度は何じゃ』
――私はここから動けません。
鏡台が、くすりと笑った。
『やっぱり、そこに気づいたのね』
『玄関から見守ればよかろう』
桐箪笥が言う。
――でも、外で困っていたら何もできません。
『人間には人間の暮らしがある』
『でも本人は行きたいのよねえ』
『お前は甘やかしすぎじゃ』
『若い子は少しくらい外へ出た方がいいわ』
――外へ出られるんですか?
招き猫が思わず割って入る。
しばらく沈黙があった。
『まだ早い』
桐箪笥が答えた。
『目覚めたその日に考えることではない』
『教えるだけならいいじゃない』
『身体の扱い方すら知らんのじゃぞ』
『だから覚えるんでしょう?』
――どうやって外へ出るんですか。
招き猫は食い下がった。
鏡台の声が楽しそうに弾む。
『あなた、自分が何の形をしているのか忘れたの?』
――何の形。
『よく考えて』
招き猫は、自分を思い浮かべる。
丸い顔。
尖った耳。
片方の前脚を上げた姿。
――猫。
『そう』
鏡台は満足そうだった。
『付喪神なら、自分に馴染んだ姿を取れることがあるの』
『できるかどうかは、お前さん次第じゃがな』
桐箪笥が付け加える。
――猫になれば、外へ出られる?
『できればね』
招き猫の中で、何かが一気に膨らんだ。
外へ出られる。
娘のそばへ行ける。
玄関から見送るだけではなく。
困っている時に、少しだけ手を貸せるかもしれない。
『……その気配は、止めても無駄じゃな』
桐箪笥が呆れたように言った。
――気配?
『顔は動かんからの』
『でも、ものすごくやる気なのは分かるわ』
鏡台が笑う。
『明日の夜、試してみましょうか』
『わしは知らんぞ』
『はいはい。そう言いながら、どうせ見てくれるんでしょう?』
『知らんと言っとる』
二体の言い合いを聞きながら、招き猫は初めて少し楽しいと思った。
百年近く同じ家にいた。
それなのに、こんな声がすぐそばにあったことを今日まで知らなかった。
自分が何者なのか。
何ができるのか。
どうすれば福を招けるのか。
まだ、分からないことばかりだ。
けれど。
少なくとも、一人ではないらしい。
玄関の棚の上。
小さな招き猫は、生まれて初めて迎える夜を静かに過ごした。
明日から何が始まるのか。
それはまだ、本人にも分かっていなかった。




