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プロローグ.幸福を招く猫

 その招き猫が買われたのは、今から九十九年前のことだった。


「せっかくだから、何か買って帰ろうか」


 新婚旅行の途中で豪徳寺を訪れた夫が、境内を歩きながらそう言った。


「何かって?」


「思い出になるもの。ほら、ここなら招き猫とか」


 妻が笑った。


「新婚旅行の思い出が招き猫?」


「いいじゃないか。福を招いてくれるんだろう?」


「じゃあ、たくさん招いてもらわないとね」


 そうして二人が選んだのは、手のひらに乗るほどの小さな招き猫だった。


 高価なものではない。


 名のある職人が作ったわけでもない。


 並んでいたいくつもの招き猫の中から、妻が、


「この子、なんだか可愛い」


 と指差した。


 ただ、それだけだった。


 家へ帰ると、小さな招き猫は玄関に置かれた。


「これからよろしくね」


 妻がそう言って、その頭を人差し指で撫でた。


 もちろん、招き猫には何も分からなかった。


 見ることも、聞くことも、考えることもできない。


 ただの土でできた置物だった。


 それでも。


 その指の温かさだけは、どこか深いところに残った。


    ◇


 それから、いくつもの季節が過ぎた。


 家の中に、小さな声が増えた。


 幼い指に耳をつままれたことがあった。


 慌てた大人の手が、その指をそっと引き離したこともあった。


 家族は笑い、泣き、喧嘩をして、また笑った。


 招き猫はいつも玄関から、それらを見ていた。


 ――見ていた。


 そう呼べるほどの心は、まだなかったけれど。


 やがて、世の中の空気が変わった。


 家の中から笑い声が減り、大人たちは小さな声で何かを話すようになった。


 そして、ある朝。


 夫はいつもよりきちんとした服を着て、玄関に立った。


 妻は何も言わず、その背中を見つめていた。


 まだ幼い子どもが、父親の袖を握っている。


 夫はその頭を撫で、妻に何かを言って笑った。


 それから靴を履きかけて――ふと、招き猫を見た。


 少し迷ったあと、夫はしゃがみ込む。


 玄関に置かれた、小さな招き猫を両手で持ち上げた。


「お前、福を招くんだったな」


 誰に聞かせるでもなく、夫は呟いた。


 それから、少しだけ困ったように笑った。


「……家族を頼んだぞ」


 招き猫は答えなかった。


 答えることなど、できなかった。


 ただ、その声だけが。


 なぜか、土の身体の奥深くへ沈んでいった。


 夫は招き猫を元の場所へ戻し、家を出た。


 玄関の扉が閉まる。


 それが、招き猫がその男を感じた最後だった。


    ◇


 男は帰ってこなかった。


 その意味を、招き猫は知らない。


 ただ、玄関の扉が開くたびに、妻が一瞬だけ顔を上げる日々が続いた。


 ある日から、それもしなくなった。


 夜。


 家族が寝静まったあと。


 妻が一人で玄関に座り込み、招き猫を手に取ることがあった。


 布で丁寧に身体を拭きながら、ぽたり、ぽたりと何かが落ちた。


「あなた……」


 その声も、招き猫の中へ沈んでいった。


 それから長い時間が流れた。


 家が変わった。


 町が変わった。


 人も変わった。


 引っ越しのたび、招き猫は新聞紙や布に何重にも包まれた。


「これは大事なものだからね」


 そんな言葉を、何度も聞いた。


「お父さんと新婚旅行で買ったの」


 やがてそれは、


「おじいちゃんとおばあちゃんの思い出の品でね」


 となり、


「ひいおじいちゃんたちの大切なものだったんだって」


 となった。


 さらに時が流れれば、最初の二人を直接知る者もいなくなった。


 それでも招き猫だけは、玄関にいた。


 欠ければ直され。


 埃をかぶれば拭われ。


 子どもが乱暴に扱おうとすれば、大人が慌てて止めた。


 誰かの泣き声を聞いた夜もあった。


 家族が増えた日には、家中に笑い声が響いた。


 招き猫には、それらの意味が分からない。


 分かるための心を、まだ持っていなかった。


 けれど。


 触れられた温かさも。


 泣き声も。


 笑い声も。


 そして、あの日の男の声も。


 少しずつ、少しずつ、その小さな身体の奥底へ積もっていった。


    ◇


 玄関の扉が開いた。


「ただいまー」


 若い女の声がした。


 十八歳になったばかりの娘だった。


 靴を脱ぎ、鞄を置き、玄関を上がる。


 そしていつものように、招き猫の頭を人差し指で撫でた。


「あんたも、ただいま」


 その瞬間だった。


 ――温かい。


 初めて、その感触に言葉がついた。


 招き猫は驚いた。


 そして、自分が驚いたということにも驚いた。


 今のは何だ。


 自分は今、何をした。


 何かを感じた。


 何かを考えた。


 娘はそんなことには気づかず、靴を揃えて立ち上がる。


 その横顔を見た瞬間。


 招き猫の中で、何かが弾けた。


 小さな指。


 大きな手。


 皺だらけになった手。


 泣き声。


 笑い声。


 暗い箱の中。


 新聞紙の感触。


 何度も聞いた「大切なもの」という言葉。


 それまでただ積もっていただけのものが、一斉に意味を持ちはじめる。


 そして、その中に。


 ひどく古い声があった。


『……家族を頼んだぞ』


 招き猫は、その言葉を初めて理解した。


 同時に気づく。


 あの声の主は、そのあと一度も帰ってこなかった。


 妻だった人が、自分を抱いて泣いた理由も。


 自分が捨てられず、九十九年間この家に残されてきた理由も。


 すべてが、ゆっくりと繋がっていく。


 娘が、ふと招き猫を振り返った。


「ひいひいおじいちゃんと、ひいひいおばあちゃんが新婚旅行で買ったんだっけ」


 誰に言うでもなく呟いて、


「百年近く前って、すごいよね」


 と笑う。


 招き猫は、その顔を見た。


 あの男とも。


 あの妻とも。


 まるで違う顔だった。


 それでも。


 どこかに、同じものがあるような気がした。


 九十九年前。


 一人の男から託された家族は、途切れずにここまで続いていた。


 そして今、その末にいる娘が、自分の目の前にいる。


 招き猫は思う。


 自分が何者なのか。


 なぜ今になって心を得たのか。


 これから何ができるのか。


 まだ何一つ分からない。


 けれど、一つだけ分かることがあった。


 あの約束は、まだ終わっていない。


 九十九年かけて初めて心を得た小さな招き猫は、家の奥へ向かう娘の背中を見つめた。


 そして、生まれて初めて自分の意思で願った。


 ――私が、この子に福を招こう。

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