番外編.古株
その日、四毛猫は、非常に重大な事実を知った。
きっかけは、本当に何気ない一言だった。
昼下がり。娘は出かけていて、家の中は静かだった。
四毛猫は猫の姿で廊下に寝転び、縁側から入る陽を浴びていた。少し離れた部屋には、いつもの桐箪笥と鏡台がある。
ふと、四毛猫は顔を上げた。
――そういえば。
『なんじゃ』
桐箪笥が答える。
――お二人は、実体化しないのですか。
一瞬、沈黙があった。
『するぞ』
――……はい?
『できるわよ』
今度は鏡台だった。
四毛猫は起き上がった。
――できるのですか。
『当たり前じゃろ』
――初めて聞きました。
『聞かれんかったからな』
あまりにも当然のように返され、四毛猫は言葉を失った。
自分が初めて実体化した時。
招き猫である自分が、一番イメージしやすかったのは猫だった。
そのため三毛猫の姿になったものの、歩き方も分からず、尻尾を踏み、壁にぶつかり、外へ出れば力加減を間違えて二日ほどまともに反応できなくなった。
その間、この二人は。
――では、私が外で苦労していた頃も。
『うむ』
――お二人は普通に実体化できたと。
『そうなるのう』
――……。
鏡台が楽しそうに笑った。
『あなた、すごい顔してるわよ』
――猫の顔で分かるのですか。
『分かるわよ。九十九年も一緒にいるんだから』
桐箪笥が少し得意そうに言った。
『儂らはお前より十年ほど先輩じゃぞ』
――それは存じています。
『なら、十年の差を甘く見るでない』
妙に説得力がある。
しかし、四毛猫にはまだ疑問があった。
――では、なぜ普段は実体化しないのですか。
『用がないからじゃ』
即答だった。
『わざわざ実体化して、外を歩いてどうする』
『私はたまには歩いてもいいと思ってるけどねえ』
『散歩など、猫に任せておけばよかろう』
――私は散歩係だったのですか。
『結果的にはそうなっとる』
釈然としない。
鏡台が少し考えてから言った。
『じゃあ、今日は久しぶりに出てみようかしら』
『今日?』
『いいお天気だもの』
『急じゃな』
『思い立った時にやらないと、また何十年もやらないでしょう?』
それは否定できないらしい。
◇
二人の実体化は、四毛猫が想像していたよりずっとあっさりしていた。
方法そのものは、かつて自分が教わったものと同じだった。
自分にとって、最もイメージしやすい姿を思い描く。
先に姿を現したのは桐箪笥だった。
三十代ほどに見える男。
きちんと着物を着込み、背筋を伸ばしている。年寄りくさい話し方から、四毛猫は勝手にもっと高齢の姿を想像していた。
続いて鏡台。
こちらも三十代ほどの女性だった。
柔らかな色合いの和装に身を包み、髪もきれいに整えている。立っているだけで妙に様になる。
四毛猫は二人を交互に見た。
「なんじゃ」
桐箪笥が眉を寄せる。
――……若いですね。
「何を想像しとった」
――いえ。
「お爺ちゃんとお婆ちゃんだと思ってたのね?」
鏡台が笑った。
――そのようなことは。
「目を逸らしたぞ」
――猫ですから。
「便利じゃな、猫」
四毛猫はそれ以上答えなかった。
ただ、二人の姿にはどこか不思議なものを感じた。
誰か一人に似ているわけではない。
けれど、知らない顔とも思えない。
長くこの家にいたからだろうか。
桐箪笥の男には、昔の家族写真の中にいた誰かのような雰囲気があり、鏡台の女にも、この家の女性たちの面影がどこか混ざっている気がした。
それはきっと、二人にとってイメージしやすい姿が、長年そばで見てきた家族の姿と無関係ではないからなのだろう。
だが、四毛猫自身にも説明はできなかった。
「さて」
鏡台が四毛猫を見る。
「あなたも行くでしょう?」
――もちろんです。
四毛猫も立ち上がった。
その瞬間。
「はい」
ひょい、と身体が持ち上がった。
――……。
鏡台の腕の中に収まっていた。
――歩けます。
「知ってるわ」
――では、なぜ抱くのですか。
「猫を抱っこして散歩してみたかったの」
――私は招き猫です。
「今は猫でしょう?」
――そういう問題では。
桐箪笥が隣で笑った。
「完全に飼い猫じゃな」
――違います。
「見た目はそうじゃ」
鏡台の腕の中は、思ったより居心地が悪くなかった。
それが余計に悔しい。
◇
三人は家を出た。
着物姿の男女と、その腕に抱かれた三毛猫。
少々目立つ。
四毛猫は何度か通行人から視線を向けられたが、鏡台は気にする様子もない。桐箪笥も堂々と歩いている。
――本当に外へ出られるのですね。
「だから言ったじゃろ」
――どこまで行けるのですか。
「近所くらいならどうということはない」
「昔はたまに出たわよね」
「お前が出たがった時だけじゃ」
「あなたも付き合ってくれたじゃない」
「一人で出すと心配じゃからじゃ」
「あら」
「何じゃ」
「別に」
四毛猫は二人を見上げた。
やはり夫婦ではない。
少なくとも本人たちはそう言っている。
しかし、長く一緒にいるとこうなるらしい。
――お二人とも、随分慣れているのですね。
「十年先輩じゃからな」
また言った。
しばらく歩いていると、向こうから聞き慣れた声がした。
「あれ?」
四毛猫の耳が動く。
娘だった。
隣には、いつもの女友達もいる。
「あ、四毛ちゃん!」
女友達が真っ先に気づいた。
娘も鏡台の腕の中を見て、足を止める。
「……四毛ちゃん?」
しまった。
四毛猫は思った。
鏡台も桐箪笥も立ち止まる。
娘と女友達が近づいてきた。
「こんにちは」
鏡台は何事もないように微笑んだ。
「こんにちは……」
娘の返事は少し遅かった。
女友達は四毛猫と鏡台を見比べる。
「もしかして、この子の飼い主さんですか?」
四毛猫の耳がぴくりと動いた。
鏡台はほんの一瞬考えたあと、
「ええ。まあ、そんなところね」
と答えた。
――そんなところではありません。
「にゃあ」
人間に聞こえたのは、それだけだった。
桐箪笥が四毛猫を見下ろす。
「似たようなものじゃろ」
「え?」
女友達が首を傾げる。
「いや、こちらの話じゃ」
その横で、娘は妙な顔をしていた。
四毛猫を見る。
鏡台を見る。
桐箪笥を見る。
そして、もう一度四毛猫を見る。
「……飼い主?」
「そうみたい」
女友達はあっさり納得している。
しかし娘は納得していなかった。
当然だった。
娘は、四毛猫が玄関にある招き猫と同じ存在なのではないかと、すでにかなり強く疑っている。
その四毛猫に。
飼い主?
「……どういうこと?」
小さく呟いた。
「何かしら?」
鏡台が笑う。
「いえ……」
娘は二人の顔をじっと見た。
まず桐箪笥。
「……なんか」
「うん?」
「曾おじいちゃんに、ちょっと似てるような……」
四毛猫が男を見る。
確かに、言われてみれば古い写真の中にそんな面影があった気もする。
もちろん同じ顔ではない。
ただ目元や立ち姿、着物を着た時の雰囲気がどこか似ている。
「そうかのう」
桐箪笥はとぼけた。
娘は今度は鏡台を見る。
「こっちは……お母さん?」
「あら」
「いや、お母さんじゃないんだけど……なんか似てる」
さらに首を傾げる。
「……私にも、ちょっと似てる?」
女友達も鏡台の顔を見た。
「言われてみれば、雰囲気ちょっと似てるかも」
「でしょ?」
「親戚じゃないの?」
「親戚なら私が知ってるし」
「それもそうか」
娘は再び二人を見る。
四毛猫は鏡台の腕の中で大人しくしている。
逃げようともしない。
むしろ明らかに気を許している。
娘の目が細くなった。
「……もしかして」
四毛猫の心臓があるなら、少し跳ねていたかもしれない。
鏡台は何も言わない。
ただ、にこりと笑った。
「何かしら?」
「……いや」
娘はそれ以上言わなかった。
「なんでもない」
その顔は、なんでもないと思っている顔ではなかった。
◇
「あっ!」
突然、女友達が声を上げた。
全員がそちらを見る。
「どうしたの?」
「私……」
女友達の顔から血の気が引いていく。
「四毛ちゃん、飼い猫だって知らなくて……」
嫌な予感がした。
「今まで、勝手にSNSに写真載せちゃってました!」
「ああ」
娘が納得する。
女友達は慌てて頭を下げた。
「すみません! 野良というか、地域猫の三毛ちゃんと一緒にいる猫だと思ってて……。場所が分からないようにはしてたんですけど、何回も写真上げちゃって……」
「あら」
鏡台は困るどころか、少し面白そうだった。
「それが“バズった”写真ね」
桐箪笥が振り向く。
「ばずった?」
「前に説明したでしょう?」
「聞いたが、よう分からん」
女友達はそんな二人を見ながらも、まだ申し訳なさそうだった。
「削除した方がよければ、全部消します」
鏡台は腕の中の四毛猫を見る。
「どうする?」
――私に聞くのですか。
「あなたの写真でしょう?」
――そうですが。
今まで散々写真を撮られている。
猫じゃらしに釣られているところまで動画に残されている。
今さらという気もする。
――家の場所などが分からないのであれば、構いません。
鏡台が頷いた。
「そのままでいいそうよ」
「……いいそう?」
女友達がきょとんとする。
「この子、そういう顔してるでしょう?」
「……えっと」
四毛猫を見る。
「にゃあ」
「……じゃあ、いいのかな?」
娘が横で必死に笑いをこらえていた。
女友達は改めて鏡台へ向き直る。
「じゃあ、今までの写真はそのままでも大丈夫ですか?」
「ええ」
「あと……」
少し遠慮がちに続ける。
「今後も四毛ちゃんの写真を撮って、SNSに載せてもいいですか?」
「もちろん」
「ほんとですか!」
「ただし、家の場所が分かるものは載せないこと。それと、この子が嫌がってる時はやめてあげてね」
「はい!」
女友達の顔が一気に明るくなった。
桐箪笥が呟く。
「すっかり飼い主じゃな」
――なぜ鏡台さんが私の飼い主になっているのでしょう。
「儂もらしいぞ」
――増えました。
「二人おれば安心じゃろ」
――何がですか。
◇
「せっかくだし、写真撮ってもいいですか?」
女友達が早速スマホを構えた。
「今?」
娘が笑う。
「だって正式に許可もらったんだよ? 記念すべき飼い主公認一枚目じゃん」
「その言い方どうなの」
「顔は出しません!」
女友達はその辺りの配慮だけは早かった。
鏡台が四毛猫を抱いたまま、少し身体の向きを変える。
「こんな感じ?」
「はい、すごくいいです!」
四毛猫は鏡台の腕の中からスマホを見る。
――また撮られるのですか。
「にゃあ」
「四毛ちゃんもいい顔して」
――しています。
ぱしゃり。
撮られた写真には、鏡台の顔は映っていなかった。
和装の女性の腕に抱かれた四毛猫。
金色の毛筋が見える右側が、ちょうどきれいに写っている。
そして少し離れた奥。
桐箪笥が後ろ姿で立っていた。
女友達と娘が話していた言葉をまだ考えていたらしく、腕を組みながら、
「……しかし、“バズる”とは、結局どういう状態なんじゃ」
と本気で悩んでいる最中だった。
その姿まで、偶然写真に収まった。
◇
その日の夕方。
女友達は写真を投稿した。
文章は、いつもより少しだけ真面目だった。
『以前から写真を載せていた四毛ちゃんですが、本日飼い主さんにお会いし、今後の撮影・SNS掲載について正式に許可をいただきました。場所が特定できる情報は載せないよう引き続き気をつけます。飼い主さん、ありがとうございます。』
そして、鏡台の腕に抱かれた四毛猫の写真。
投稿してしばらく。
いつも以上の勢いで反応が増え始めた。
『四毛ちゃん飼い猫だったの!?』
『飼い主さんいたんだ!』
『ちゃんと許可取ってるのいいね』
『公認四毛ちゃんになった』
『これで安心して推せる』
『抱っこされてる四毛ちゃんかわいい』
『めちゃくちゃ落ち着いてる』
『飼い主さんの腕の中好きなんだろうな』
『金色のところ綺麗に写ってる!』
『飼い主さん和服なの素敵』
『四毛ちゃん大事にされてるの伝わる』
『公式供給ありがとうございます』
そんなコメントの中に、ちらほらと別のものも混ざり始めた。
『ところで後ろの着物の人なにしてるの?』
『なんかめっちゃ考え込んでない?』
『四毛ちゃんより後ろの人が気になってきた』
娘はそれを見て、写真を拡大した。
確かに奥には、腕を組んで考え込んでいる桐箪笥の後ろ姿がある。
「……この時まだ、“バズる”について考えてたんだ」
思わず笑った。
だが、すぐにまた四毛猫へ目を戻す。
鏡台の腕の中で、すっかり安心した顔をしている。
『四毛ちゃん、ちゃんと大事にされてる猫だったんだね』
そのコメントだけを、娘は少し長く眺めた。
「……大事にはされてるよね」
玄関の招き猫を見る。
右前脚から脇腹には、金継ぎの線。
「飼い猫かどうかは知らないけど」
◇
夕食のあと。
娘はリビングでくつろいでいた父親を見て、何気ない口調を装った。
「ねえ、お父さん」
「ん?」
「あの箪笥って、ずっと家にあるんだよね?」
父親は娘が指した先を見た。
いつもの桐箪笥。
「ああ。ずっとあるぞ」
「どのくらい?」
「俺がこの家に来た時には、もうずいぶん古かったからな。お祖父ちゃんより前からあるって聞いてるぞ」
「そんなに?」
「でも丈夫なんだよ。あそこに入れておくと服が長持ちするしな」
娘の眉がわずかに動いた。
「……長持ちする?」
「そうなんだよ。虫に食われたり傷んだりもしにくいし。昔の桐箪笥って、やっぱり凄いなぁ」
「ふーん」
娘は桐箪笥を見る。
昼間に会った、着物姿の男。
曾祖父の古い写真に、少しだけ似ていた男。
もちろん、箪笥は何も言わない。
娘はしばらく眺めたあと、今度は台所にいた母親のところへ向かった。
「お母さん」
「なに?」
「うちにある鏡台って古いよね」
「古いわよ。私が子どもの頃からずっとあるもの」
「それなのに、まだ使ってるよね」
「だって便利だもの。古いけど、まだまだ現役よ」
母親は何を今さら、とでも言いたげだった。
娘は少し考える。
「私もたまに使ってるけどさ」
「うん」
「洗面台の鏡より、なんか上手に化粧できるよね」
「ああ、分かる」
母親はすぐに頷いた。
「あの鏡でやると、不思議とまとまるのよね。髪もそうだし」
「……やっぱり?」
「だから手放せないのよ」
母親は笑った。
「我が家の家宝だもの」
「家宝」
「そう。大事にしなさいよ」
「……ふーん」
娘は鏡台を見る。
昼間の女性。
母親に少し似ていて。
自分にも、どこか似ていた女性。
古い桐箪笥。
古い鏡台。
なぜか四毛猫の飼い主を名乗った、着物姿の男女。
「……まさかね」
娘は小さく呟いた。
それ以上は何も聞かなかった。
◇
夜。
四毛猫はいつもの招き猫へ戻っていた。
桐箪笥も鏡台も、すでに本来の姿で部屋に収まっている。
娘のスマホから聞いた話では、今日の写真はかなり伸びているらしい。
『私たちも少し話題になってるみたいよ』
鏡台が楽しそうに言う。
『……儂まで?』
『後ろ姿が気になるって』
『儂は何もしとらんぞ』
――「バズるとは」で悩んでいたからだそうです。
『本当に分からんかったんじゃ』
――分からないことを考えていただけで注目されるのですね。
『世の中というものは分からん』
『あなたがそれを言うと、本当にお爺ちゃんみたいよ』
『誰がお爺ちゃんじゃ』
四毛猫は少し笑った。
それから、昼間とは別のことを思い出す。
――そういえば。
『何じゃ』
――桐箪笥さん。
『うむ』
――服が長持ちするそうですね。
一瞬、返事が止まった。
『……桐箪笥じゃからな』
――昔の桐箪笥は凄い、と褒めていましたよ。
『聞こえとったわ』
鏡台がくすくす笑う。
『嬉しそうね』
『やかましい』
四毛猫は今度は鏡台へ意識を向けた。
――鏡台さんは、我が家の家宝だそうです。
『まあ』
先ほどまで桐箪笥をからかっていた声が、明らかに弾んだ。
『それも聞こえてたわ』
『お前も嬉しそうではないか』
『家宝ですもの』
『調子に乗るでない』
――洗面台の鏡より、化粧が上手にできるとも。
『当然でしょう?』
――当然なのですか。
『女の顔を何年見てきたと思ってるの』
『……すぐ調子に乗りおって』
『何か言った?』
『何も』
四毛猫は二人のやり取りを聞きながら、少しだけ嬉しくなった。
家族は何も知らない。
二人が付喪神であることも。
服が長持ちする理由も。
鏡の前だと少しだけ自分を整えやすくなる理由も。
知らないまま。
それでも、大切に使っている。
――しかし。
『何?』
――今日は驚きました。
『私たちが実体化できたこと?』
――それもあります。
少し間を置く。
――実体化したお二人は、この家の人たちに少し似ているのですね。
桐箪笥も鏡台も、すぐには答えなかった。
『長くおるからのう』
やがて桐箪笥が言った。
『いろんな顔を見てきたわ』
鏡台も続けた。
『笑った顔も、泣いた顔も。子どもの頃も、大人になってからも』
それだけだった。
実体化する時にイメージした姿。
誰か一人をそのまま写したわけではない。
けれど、長い年月の中で見てきたものが、少しずつその姿に混ざったのかもしれない。
四毛猫はそれ以上聞かなかった。
◇
翌朝。
娘が出かける前に、桐箪笥のある部屋の前で立ち止まった。
じっと見る。
「……昨日の人」
当然、返事はない。
次に鏡台を見る。
「お母さんにも、私にも似てたんだよね……」
首を傾げる。
「服が長持ちする箪笥」
桐箪笥を見る。
「化粧が上手くできる鏡台」
鏡台を見る。
「それで四毛ちゃんの飼い主って……」
しばらく考えて。
「……もしかして」
そこまで言ったところで、玄関の招き猫が目に入った。
「まあ、いっか」
娘は靴を履いた。
「行ってきます」
家を出る直前。
少しだけ振り返る。
「……箪笥さんと、鏡台さんにもよろしくね。四毛ちゃん」
招き猫は動かない。
娘は笑って出ていった。
扉が閉まる。
しばらくして。
『……気づいとるんじゃないか?』
桐箪笥が言った。
『どうかしらね』
鏡台は楽しそうだった。
――確信はしていないようです。
『なら、それでよかろう』
四毛猫もそう思った。
知らなくてもいい。
分かっていても、分からないふりでもいい。
この家には、ずっと昔からいるものがいる。
黙って服を守ってきたもの。
家族の顔を映し続けてきたもの。
そして、幸福を招こうとしているもの。
それだけで十分だった。
『ところで』
桐箪笥が言う。
『何でしょう』
『飼い猫』
――その呼び方はやめてください。
『でも飼い主公認じゃぞ』
――私は招き猫です。
『その招き猫を昨日は抱っこして散歩したのよね』
――……。
『嫌じゃったか?』
少しだけ間が空いた。
――嫌ではありませんでした。
『ほれ見ろ』
――ですが、飼い猫ではありません。
鏡台がくすくす笑う。
『はいはい』
この日から。
女友達のSNSには、ときどき四毛猫の写真と一緒に、小さな一文が添えられるようになった。
――飼い主さん掲載許可済み。
そしてなぜか。
その一文が付いてからの方が、四毛猫の写真は以前よりよくバズるようになった。




