番外編.パートナー
その日、先輩三毛は来なかった。
いつもの夕方。四毛猫は塀の上に座り、娘が帰ってくる道を眺めていた。
普段なら、少し遅れて桜耳の三毛猫が現れる。何をするでもなく隣に座り、時々「見すぎ」と注意される。それが、いつものことだった。
けれど、その日は来なかった。
――今日は遅いですね。
四毛猫は少し待った。
地域猫なのだから、毎日同じ場所にいるとは限らない。それくらいはもう分かっている。
娘が帰ってきた。
「あれ。今日は四毛ちゃんだけ?」
「にゃあ」
「三毛ちゃん、いないんだ」
娘も少し気にしたようだったが、その日はそれだけだった。
四毛猫も、明日には来るだろうと思った。
けれど。
次の日も、先輩三毛は現れなかった。
「今日もいないね」
娘が塀の前で呟く。
四毛猫は返事をしなかった。
――二日。
さすがに気になる。
◇
夜。
玄関の棚へ戻った招き猫は、桐箪笥と鏡台にその話をした。
――先輩が二日来ていません。
『猫なんじゃから、そういう日もあるじゃろ』
桐箪笥が答える。
――そうなのですが。
『心配なのね』
鏡台にはすぐ見抜かれた。
――……はい。
猫として外へ出たばかりの頃。
歩き方も、距離の取り方も、毛づくろいの仕方も何も知らなかった。
人間の言葉に反応しすぎるな。
じっと見すぎるな。
時には無視しろ。
猫らしくしろ。
何度も呆れられ、何度も助けられた。
娘のそばに自然にいられるようになったのも、先輩三毛のおかげだった。
――探しに行った方がいいでしょうか。
『それを儂らに聞くのか』
桐箪笥が言う。
――え。
『お前さんがどうしたいかじゃろ』
招き猫は黙った。
答えはもう決まっていた。
――探しに行きます。
『なら、無茶はするなよ』
――分かっています。
『本当に?』
鏡台の声に、招き猫は少し言葉を詰まらせる。
以前、遠くまで行きすぎて、実体を保てなくなったことがある。
二日間、何も分からなくなった。
それ以来、自分がどれくらい動けるのか、少しは考えるようになった。
――今回は、ちゃんと戻る分を残します。
『ならよし』
◇
翌朝。
四毛猫はいつもより早く実体化した。
先輩三毛がよく歩いていく方向は知っている。
地域猫の餌場がある方。
以前は何も考えずに遠くまで進んだ。
今日は違う。
家から離れるたびに、自分の力が少しずつ減っていく感覚を確かめる。
――まだ大丈夫。
何軒か家を過ぎる。
角を曲がる。
いつもの付喪神たちの声は、もう聞こえない。
それでも進む。
先輩の匂いを探す。
猫の身体にも、少しずつ慣れた。以前なら分からなかった匂いも、今なら何となく追える。
やがて。
細い路地の奥。
物置の陰から、見覚えのある尻尾が見えた。
――先輩!
「……うるさい」
桜耳の三毛猫がいた。
地面に伏せている。
四毛猫は駆け寄った。
――何してるんですか。
「休んでる」
――二日も?
「そう」
立とうとした先輩三毛が、顔をしかめた。
左の後ろ脚を地面につけない。
――怪我してるじゃないですか。
「ちょっと痛いだけ」
――ちょっとなら二日も来られなくなりません。
「細かい」
近くで見ると、血は出ていない。
大きく腫れているようにも見えない。
けれど、歩くのは明らかにつらそうだった。
――帰りましょう。
「無理」
――ゆっくりなら。
「家までどれだけあると思ってるの」
四毛猫は黙った。
先輩三毛が、今度はこちらを見る。
「それに、あんたもここまで来たら結構使ってるでしょ」
――まだ戻れます。
「なら戻りな」
――でも。
「ここで二匹動けなくなったら意味ないでしょ」
反論できなかった。
「誰か呼んできて」
先輩三毛が言う。
「今のあんたなら、それくらいできるでしょ」
四毛猫は少し考え。
頷いた。
――待っていてください。
「動けないから待ってる」
相変わらずだった。
◇
四毛猫は家へ戻った。
ぎりぎりまで力を使わず、途中で休みながら。
家の前へ着いた頃には、ちょうど娘が出かけようとしているところだった。
「あれ、四毛ちゃん」
――来てください。
「にゃあ」
「どうしたの?」
四毛猫は少し歩く。
振り返る。
「……なに?」
もう一度歩く。
また振り返る。
娘の顔が変わった。
「ついてこいってこと?」
「にゃあ」
「やっぱり分かってやってるよね、それ」
四毛猫は歩き始めた。
「ちょっと待って!」
娘が靴を履き直し、ついてくる。
家から離れすぎると四毛猫の体力が減るため、先ほどよりゆっくり進む。
途中、何度か娘を待つ。
「四毛ちゃん、何があるの?」
答えられない。
それでも娘は、黙ってついてきた。
そして。
「三毛ちゃん!」
物置の陰にいる先輩三毛を見つけた。
娘がしゃがむ。
「どうしたの?」
手を伸ばそうとすると、先輩三毛が少し身体を引く。
「フッ」
「ごめん。触らないから」
娘は桜耳を見る。
「この子、地域猫だよね」
スマートフォンを取り出す。
「勝手に病院連れてったらダメだよね……」
以前、耳の形から地域猫だと聞いていた。
娘はこの辺りの地域猫を世話している団体を調べ、電話をかけた。
「すみません。いつも家の近くにいる桜耳の三毛猫なんですけど……後ろ脚を痛めてるみたいで」
しばらく話す。
「はい。歩く時、左の後ろ脚をつけてません」
電話の向こうから、病院で診てもらった方がいいと言われたらしい。
問題は。
「キャリー……」
娘の家には猫用キャリーなどない。
少し考え。
「そうだ」
誰かへ電話をかける。
「もしもし? 今大丈夫?」
◇
十五分ほどして。
「三毛ちゃんどこ!?」
女友達が走ってきた。
両手には。
キャリーケースが二つ。
「なんで二つ?」
「四毛ちゃんも一緒に行くかと思って!」
娘は一瞬、四毛猫を見る。
四毛猫は。
――私も行きます。
もちろん、そのつもりだった。
「この子は大丈夫」
娘が即答した。
――え。
「え?」
女友達も同じ顔をする。
「いや、めっちゃ心配そうだけど」
「うん。でも大丈夫」
「なんで言い切れるの?」
「まあ……」
娘は四毛猫を見る。
「この子は家で待っててもらう」
――なぜですか。
「にゃあ」
「ほら、抗議してる」
女友達が言う。
娘は四毛猫の前にしゃがみ、頭を撫でた。
「大丈夫。ちゃんと診てもらって、連れて帰ってくるから」
――私も。
「待ってて」
娘の声は優しかった。
でも。
どこか、こちらの言っていることを分かった上で言っているようでもあった。
先輩三毛が、キャリーへ入れられる。
「知らない猫の匂いするんだけど」
――我慢してください。
「嫌」
――病院へ行ってください。
「分かってる」
――私も。
「来なくていいから」
――でも。
「病院までついてきて何するのよ」
四毛猫は黙った。
「待ってなさい」
先輩三毛の声。
娘にも聞こえない。
でも。
四毛猫には十分だった。
キャリーが持ち上げられる。
女友達は、もう一つの空のキャリーを見る。
「ほんとに四毛ちゃんは?」
「いいの」
「……また何か知ってるよね?」
「まあね」
「もう驚かなくなってきた」
二人は先輩三毛を連れて行った。
四毛猫は、その背中が見えなくなるまで見送った。
◇
その日の夕方。
四毛猫は塀の上にいた。
いつもの場所。
でも、隣は空いている。
――遅いですね。
何度、道の先を見たか分からない。
『落ち着かんのう』
家の近くなので、桐箪笥の声が届く。
――まだ帰ってきません。
『病院というものは時間がかかるんじゃろ』
――そうなのですか。
『知らん』
――……。
『待つのも大事よ』
鏡台が言う。
『あなた、いつもあの子の帰りを待ってるでしょう?』
――娘の?
『そう』
招き猫は黙った。
待つ。
何もできない。
ただ、無事に帰ってくるのを待つ。
今まで何度もしてきたことだった。
でも。
今日は妙に長かった。
やがて。
「ただいま」
娘の声がした。
四毛猫は塀から飛び降りる。
「四毛ちゃん」
娘が笑う。
「大丈夫だったよ」
四毛猫の耳が立つ。
「骨は折れてないって。軽い捻挫みたい」
――よかった。
「数日は無理しない方がいいって」
先輩三毛は、地域猫の管理をしている人のところで少し休ませてもらうらしい。
「ちゃんと元気になったら戻ってくるから」
「にゃあ」
娘は四毛猫の頭を撫でた。
「よく見つけたね」
――先輩ですから。
「ありがと」
招き猫は。
少しだけ胸を張った。
◇
数日後。
「寒い」
いつもの縁側。
猫用こたつの前で、聞き慣れた声がした。
四毛猫が振り返る。
桜耳の三毛猫。
――先輩!
「声大きい」
少し歩き方は慎重だが、もう普通に脚をついている。
――大丈夫ですか。
「見れば分かるでしょ」
――本当に?
「誰の真似?」
――桐箪笥さんです。
「似てない」
先輩三毛が、猫用こたつへ入ろうとする。
四毛猫も続いた。
「何で一緒に入ってくるの」
――二匹用です。
「狭い」
――詰めれば入れます。
「近い」
いつもの会話。
いつもの声。
四毛猫は、それだけで安心した。
こたつの中。
二匹並んで身体を丸める。
しばらくして。
四毛猫が言った。
――先輩。
「なに」
――少しは、恩返しできましたか。
「何それ」
――私は先輩に、たくさん教えてもらいました。
猫として歩くこと。
外で生きること。
娘のそばにいること。
困った時にどうすればいいか。
――なので。
「別に恩なんて売った覚えないけど」
――でも、私は助かりました。
こたつの中が静かになる。
先輩三毛は、少しだけ身体の向きを変えた。
「……じゃあ」
――はい。
「これでチャラね」
――チャラ。
「貸し借りなし」
四毛猫は少し考えた。
そして。
――嫌です。
「は?」
先輩三毛が顔を上げる。
――また困ったら助けます。
「何でよ」
――パートナーなので。
「それ、私が言ったやつじゃん」
――はい。
「調子乗らないで」
――はい。
「返事だけはいいんだから」
四毛猫は少し笑った。
外から娘の声がする。
「あ、三毛ちゃん戻ってきてる!」
先輩三毛がこたつから顔を出す。
「うるさくなる前に寝よ」
――はい。
「あと」
――なんですか。
「……ありがと」
四毛猫が顔を上げた。
――今、何と。
「何も言ってない」
先輩三毛は、こたつの奥へ潜ってしまった。
四毛猫も追いかけようとする。
「近いって!」
――もう一度言ってください。
「言わない!」
縁側に、二匹の声が響く。
娘には。
「にゃあ、にゃあ」
としか聞こえなかった。
「元気そうでよかった」
娘は笑った。
そして。
その日は写真を撮らなかった。
二匹がゆっくり休めるように。




