番外編.猫じゃらし
ある日の午後、女友達が小さな紙袋を持って遊びに来た。
「これ、四毛ちゃんにどうかなって」
「なに?」
娘が袋を覗き込む。
中から出てきたのは、細い棒の先に羽根のついた猫じゃらしだった。
「うちの猫、これめちゃくちゃ好きなんだよね」
「へえ」
「この前、四毛ちゃんも結構遊びそうだなって思って」
娘は猫じゃらしを手に取った。
「四毛ちゃん、こういうので遊ぶのかな」
「猫なんだから遊ぶでしょ」
「……猫、ではあるのかな」
「何その言い方」
「なんでもない」
女友達は怪しそうな顔をしたが、それ以上は聞かなかった。
娘だけは知っている。
家の前に現れる金色混じりの四毛猫が、玄関に置かれている招き猫そのものだということを。
だからこそ。
猫じゃらしに反応するのかは、娘にも分からなかった。
◇
家の前へ出ると、今日も二匹はいつもの塀の上にいた。
桜耳の三毛猫と、その隣の四毛猫。
「あ、いたいた」
女友達が猫じゃらしを取り出す。
招き猫は、その棒をじっと見た。
――何ですか、それは。
「猫じゃらし」
先輩三毛猫が答える。
――それは見れば分かります。
「じゃあ何を聞いてるの」
――何をするものなんですか。
先輩猫は呆れた顔をした。
「……あんた本当に猫?」
――元は招き猫です。
「知ってる」
女友達が猫じゃらしを軽く振った。
羽根が左右へ揺れる。
招き猫の目も、それに合わせて動いた。
右。
左。
右。
左。
「見てる」
娘が言った。
「めっちゃ見てるね」
女友達も笑う。
――見ているだけです。
「誰に言い訳してるの」
先輩猫が言う。
猫じゃらしがもう一度振られる。
右。
左。
右。
左。
招き猫の右前脚が、ぴくりと動いた。
「今、手出そうとした」
娘が指摘する。
――出していません。
「出そうとしてたよ」
先輩猫も言う。
――していません。
その瞬間。
羽根が目の前を横切った。
ぱしっ。
前脚が出た。
招き猫自身が一番驚いた。
――……。
「触った!」
「ほら! やっぱり好きじゃん!」
娘と女友達が同時に笑う。
招き猫は何事もなかったように前脚を戻した。
――今のは偶然です。
「偶然ねえ」
先輩猫の声に笑いが混じっている。
女友達が今度は少し速く振った。
招き猫の目が追う。
羽根が右へ。
前脚が出る。
左へ。
もう一方の前脚が出る。
少し遠くへ。
身体が前へ出る。
「完全に遊んでるじゃん」
娘が笑った。
――これは遊びではありません。
「じゃあ何してんの?」
先輩猫が聞く。
招き猫は少し考えた。
――訓練です。
「何の?」
答えは出なかった。
◇
そこからは早かった。
女友達が猫じゃらしを地面すれすれに動かす。
招き猫が追う。
塀の上。
地面。
植木鉢の横。
再び塀へ。
先ほどまでの澄ました態度は、もうどこにもなかった。
「四毛ちゃん、こっち!」
羽根が跳ねる。
招き猫も跳ぶ。
「すごいすごい!」
娘が笑う。
――待ってください。
猫じゃらしが逃げる。
――止まってください。
「止まったら猫じゃらしじゃないでしょ」
先輩猫は塀の上で見物しているだけだった。
――先輩はやらないんですか。
「今日は見てる方が面白い」
――ずるいです。
「誰もやれなんて言ってないじゃん」
その通りだった。
招き猫は一瞬止まる。
――では私もやめます。
「そう?」
女友達が猫じゃらしを止める。
羽根が目の前でふらりと揺れた。
招き猫の目が細くなる。
動かない。
動かない。
動かない。
……少し揺れた。
ぱしっ。
「やっぱりやるんじゃん!」
娘が笑い出した。
――今のは。
「偶然?」
先輩猫が先回りする。
――……はい。
「便利な言葉だね」
どこかで聞いたような言い方だった。
◇
やがて女友達は、少し高い位置で猫じゃらしを振り始めた。
招き猫は何度も跳ぶ。
それでも届かない。
「もうちょっと高くしてみる?」
「これくらい?」
羽根がさらに上へ上がる。
招き猫は見上げた。
――届きません。
「諦めれば?」
先輩猫が言う。
――いえ。
もう一度跳ぶ。
届かない。
もう一度。
やはり届かない。
「四毛ちゃん、めっちゃ本気じゃん」
女友達が楽しそうに笑う。
招き猫は猫じゃらしを見つめた。
あと少し。
本当に少しだけ。
あれなら。
――もう一歩。
跳ぶ。
身体が浮く。
前脚を伸ばす。
まだ足りない。
その瞬間。
空中で。
とん。
何もない場所を、一歩だけ踏んだ。
身体がもう一段上へ伸びる。
ぱしっ。
猫じゃらしを両前脚で捕まえた。
「……」
娘が固まった。
「……」
女友達も固まった。
招き猫は猫じゃらしを抱えたまま着地した。
そして。
自分が何をしたのか思い出した。
――……。
女友達がゆっくり娘を見る。
「今の見た?」
「見た」
「やっぱり跳んだよね?」
「跳んだね」
「空中で」
「空中で」
女友達は招き猫を指差した。
「ほらあああ! やっぱりこの猫、空中で跳ぶじゃん!」
招き猫は猫じゃらしを咥えたまま目を逸らした。
――しまった。
先輩猫が塀の上で腹を抱えるように笑っている。
「猫じゃらし取るために使うとは思わなかった」
――笑わないでください。
「だって、あれ人助けの時に使ってたやつでしょ?」
――結果的には。
「今日は猫じゃらし」
――……。
娘も呆れたように笑った。
「そこまでして欲しかったんだ」
招き猫は猫じゃらしを離した。
――違います。
「じゃあもう一回やる?」
女友達が棒を持ち直す。
招き猫の耳が動いた。
先輩猫が見逃さなかった。
「やる気じゃん」
――やりません。
羽根が揺れる。
右。
左。
招き猫の目が追う。
――……少しだけなら。
◇
その夜。
招き猫は玄関の棚の上へ戻っていた。
『今日は随分疲れとるな』
桐箪笥が言う。
――少し運動を。
『運動?』
鏡台の声が楽しそうだった。
『猫じゃらしでしょ?』
招き猫は固まった。
――なぜ知っているんですか。
『あの子が動画を見せてくれたもの』
――動画。
『ええ。ものすごく楽しそうだったわよ』
――違います。
『何が違うの?』
――あれは訓練です。
『猫じゃらしで?』
――猫としての。
『空中まで跳んどったぞ』
桐箪笥まで知っていた。
――見たんですか。
『鏡台が説明した』
『すごかったわよ。“ここ!”ってところで空中を蹴って』
――再現しなくていいです。
『それで猫じゃらしを取ったんじゃな』
桐箪笥の声が低くなる。
――はい。
『お前さん』
――はい。
『あの力は、そういうことに使うものなのか』
招き猫は少し考えた。
娘を守った時。
蜂を追い払った時。
あの力は、自分でも必死だった時に出た。
今日も。
必死だった。
猫じゃらしに。
――……たぶん、違います。
『じゃろうな』
鏡台が笑う。
『でも、いいじゃない。楽しそうだったもの』
招き猫は黙った。
楽しかった。
それは否定できない。
『猫らしくなったじゃない』
――そうでしょうか。
『少なくとも前よりは』
少しだけ嬉しい。
その時。
『そういえば』
鏡台が続けた。
『あの動画、女友達が欲しがってたわよ』
――なぜですか。
『SNSに載せたいんじゃない?』
招き猫は嫌な予感がした。
――それは。
『またバズるかもしれんのう』
桐箪笥が言う。
前まで知らなかった言葉を、すっかり覚えている。
――やめてください。
『“空中で猫じゃらしを取る四毛猫”』
鏡台が楽しそうに言った。
――絶対にやめてください。
翌朝。
娘は玄関の招き猫の頭を撫でながら言った。
「四毛ちゃん」
――はい。
「昨日の動画、めっちゃかわいかったよ」
――消してください。
「またやろうね」
――やりません。
「じゃあね」
娘は笑って出かけていった。
玄関が静かになる。
『どうせまたやるじゃろ』
桐箪笥が言う。
――やりません。
『本当に?』
鏡台。
――本当です。
招き猫はきっぱり答えた。
その日の夕方。
娘が猫じゃらしを持って帰ってくるまでは。




