音に触れるな
第2話です。
今回は水瀬にとって大事な「音」に、朝比奈が踏み込んでくる回になります。
少し空気が変わる場面もあるので、その違和感を感じてもらえたら嬉しいです。
放課後。
誰もいなくなった音楽室で、弓を引く。
細く、まっすぐな音が空気を震わせる。
それだけで、少しだけ息が楽になる。
人と話すときみたいに、何を考えればいいのか迷わなくていい。
ただ音を出すだけでいい。
間違えても、誰にも見られない。
それが、好きだった。
音の中にいるときだけ、余計なことを考えなくていいから。
もう一度、弓を動かそうとしたとき。
――ガラッ。
ドアが開く音。
反射的に振り返る。
「……やっぱここだった」
そこに立っていたのは、朝比奈だった。
「……なんで」
思わず声が出る。
心臓が一気にうるさくなる。
「音、聞こえたから」
当たり前みたいに言って、こっちに歩いてくる。
「やめろ」
とっさに言った。
「来んな」
自分でも驚くくらい、強い声だった。
でも朝比奈は止まらない。
むしろ、少しだけ楽しそうに笑った。
「なんで」
「……見られたくない」
正直に言うと、少しだけ間が空く。
「ふーん」
それだけ。
でも足は止まらない。
気づけば、すぐ目の前まで来ていた。
距離が、近い。
「……弾けよ」
「は?」
「さっきの」
当たり前みたいに言う。
「やだ」
即答する。
「なんで」
「……俺のだから」
口に出してから、少しだけ後悔した。
でも、取り消せない。
朝比奈は一瞬だけ目を細めて。
それから、静かに言った。
「いいじゃん、別に」
「よくない」
「減るもんじゃないし」
「そういう問題じゃねえよ」
声が強くなる。
それでも。
「……聴きたい」
その一言で、全部止まる。
さっきまでと違う声だった。
軽さがない。
「なんで」
絞り出すみたいに聞く。
朝比奈は、少しだけ視線を逸らしてから。
「好きだから」
と、言った。
一瞬、意味が分からなかった。
「……は?」
聞き返すと、朝比奈は小さく笑った。
「音」
すぐに付け足す。
でも。
その言い方が、妙に引っかかった。
「前、聞いたって言っただろ」
「あれ、マジでやばかったから」
また近づく。
逃げようとして、でも足が動かない。
「だからさ」
すぐ目の前。
手を伸ばせば触れそうな距離。
「ちゃんと聴かせてよ」
断らなきゃいけない。
分かってるのに。
「……一回だけ」
気づいたら、そう言っていた。
朝比奈は少しだけ驚いた顔をして。
それから、嬉しそうに笑った。
「約束な」
軽く言う。
でも、その目は逸らさない。
弓を構える。
指が、少し震えているのが分かる。
なんでこんなに緊張してるんだ。
今まで一人で弾いてきたのに。
音を出す。
いつもと同じはずの音が、少しだけ違う気がする。
後ろに、気配があるから。
誰かが聴いてるから。
一曲、弾き終わる。
静寂が戻る。
怖くて、振り返れない。
「……すげえ」
小さく、声がした。
「ほんとに、すげえ」
ゆっくり振り返る。
朝比奈は、さっきまでと違う顔をしていた。
笑っていない。
ただ、まっすぐ見ている。
「なあ」
一歩、近づく。
「その音さ」
また距離が縮まる。
「嘘ついてないよな」
息が、止まる。
何も言えない。
見透かされてるみたいで。
「……別に」
やっと出た言葉。
でも、声が少し揺れている。
朝比奈は少しだけ黙って。
それから、ふっと笑った。
「やっぱいいな」
いつもの顔に戻る。
でも。
「もっと聴かせてよ」
その言葉は、さっきより重かった。
「……やだ」
「なんで」
「……俺のだから」
同じ言葉を繰り返す。
朝比奈はそれを聞いて、少しだけ考えるようにしてから。
「じゃあさ」
ふいに、手首を掴まれる。
びくっと体が揺れる。
「俺にもなればいいじゃん」
「……は?」
意味が分からない。
「お前の中に入れてよ」
その言い方に、背筋がぞわっとする。
冗談みたいな声なのに。
冗談に聞こえない。
「……意味わかんねえ」
振り払おうとする。
でも、少しだけ力が強くなる。
「分かるだろ」
耳元で、低く言われる。
「俺、お前のことちゃんと聴いてるし」
心臓が、うるさい。
「逃げんなよ」
小さく、囁く。
「音も、お前も」
その言葉が、離れない。
振り払えない。
音楽室の空気が、さっきまでと全然違う。
――なんで。
なんで、こいつにだけ。
こんなに、踏み込まれてる気がするんだ。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
音楽室での出来事をきっかけに、ふたりの距離は少しずつ変わり始めます。
朝比奈の言動にも、少し引っかかる部分が出てきたのではないでしょうか。
これから過去や理由も含めて、関係がどう変わっていくのか描いていく予定です。
よければ続きも読んでいただけると嬉しいです




