8 死体
しかし何があったのか? 強欲な金貸しとして、バートラムが大勢の恨みを買っていたことは僕も知っている。泣かされた人間は数知れない。だからいつか誰かに刺されても決して意外ではないが、目の前の死体はきれいなものだった。傷もなければ血も出ていないし、争った形跡もない。死因はなんだろう? 肌は不自然なほど白かった。バートラムは両の瞼を閉じ、胸の上で両手を交差させて行儀よく眠っているように見える。衣服もまったく汚れていなかった。
だがそれよりも目立つのは辺りの様子だ。バートラムの死体の周りには奇妙なものが散らばっている。まずは地面に落ちている赤い紐。いや、死体をすっぽりと囲むように円を描いているから、これは意図的に配置されているようだ。その赤い紐の円の周りには丸い石が意味ありげに、ぽつぽつと等間隔で置かれている。
そこから少し離れた場所には何か燃やしたのか、少量の黒い煤が溜まっていた。そばには奇怪な形の文字だか記号だかよくわからないものが描かれている。何語だろう? 白いチョークで石畳に描いてあるのだが、この国の言語でないことだけは確かだった。それぞれどういう意図があるのか、皆目見当がつかない。
僕は狭い裏路地をぐるりと見回して口を開く。
「なんだろうな……辺りに散らばってるこれは。まるで儀式でもやったあとみたいだ」
「儀式って、なんの儀式ですか?」
リズが少し怯えたように尋ねる。
「魔法……? いや、わからないけどね。僕にはそれくらいしか思いつかないよ。確か魔方陣とか呼ばれてるやつじゃないのかな」
その直後、おやと僕は思う。地面に倒れているバートラムの服の大きさが微妙に合っていない気がしたのだ。些細な違和感だが、よく見ると服がやや小さい印象を受ける。
気になった僕は死体の横に屈み、まじまじと観察した。そしてすぐに気づいた。
服の横幅が合っていない。腹囲がまったく足りていないのだ。もともとバートラムは、ぽっこりと腹が出た男なのだが、そこだけが妙にぴちぴちで不自然だった。
こんな服を着ていたら苦しいだろう。死体が何も感じないのはわかっているが、僕は彼の上着のボタンを上から外していく。
「えっ――」
ぎょっと息を呑んだのは、肌を露出させた途端に異様なものが目に入ったからだ。
彼の胸の真ん中には大きな穴が開いている。横に長い楕円形の穴で、その中には何もなかった。
空洞だ。なんとバートラムの胸部は中身がすっぽりとくり抜かれていたのである。
僕は思わず卒倒しそうになった。死体の胸に開いた穴の中には、本当に一切何もない。肉も骨も血管も心臓も全部きれいに抜き取られている。それでいて血はほんのわずかしか付着していなかった。なんなんだこれは? 一体どういう殺し方をしたのだ?
穴の内側は不気味なくらいなめらかで、とても人間の仕業とは思えず、まるで魔法でも使ったかのような――。
「うわあああっ!」
僕は今度こそ本気で絶叫した。
まさかそういうことなのか? 魔法で心臓を奪われて殺されたということは。
「これは……心奪の魔法師の仕業か!」
全身の毛が逆立つような戦慄に襲われた。なんてことだろう。ハンスが言っていたことは本当だった。心奪の魔法師は本当にこの街に来ていたのだ。なんらかの理由でバートラムを殺して心臓を奪い、仕上げに邪悪な魔法の儀式を執り行ったのだろう。
父の仇である心奪の魔法師がこの街にいる。そう思うと僕は強烈な板挟みの感情に襲われた。燃え上がる復讐心と込み上げる恐怖心、そして今の自分には戦うすべがないという無力な現実の狭間で、とてもじゃないが冷静ではいられない。
むしろリズの方が落ち着いて見えた。最初は怖がっていたものの、彼女は意外と好奇心旺盛で大胆でもあるらしい。青ざめながらも静かにまじまじと死体を観察している。
「ふむ……胸の中心だけが完全に抜き取られてます。それに変わった匂いが……。皮膚から木と油が混ざったような匂いがする。あ、爪の間には木のくずが挟まってるみたい」
「それもたぶん儀式の一環なんだろう。魔法を使った痕跡に違いない」
通行人が集まってきたのは僕とリズがそんな会話をしていたときだった。先ほどの僕の叫び声を聞いて集まってきたらしい。全部で七、八人ほど。その中の労働者風の男が太い眉をひそめて僕を見る。
「あんたら、何があったんだ? そこに倒れてるのは金貸しだよな?」
「ええ、バートラムさんです。彼は殺されています。おそらくは心奪の魔法師に」
「な、なんだとおお?」
僕の言葉に皆は驚き、「馬鹿な!」とか「信じられん!」などと声を張り上げた。
もちろん中には冷静な者もいて、心奪の魔法師がやった根拠を尋ねる者もいたが、死体から心臓が抜き取られているのを我が目で見ると、飛び上がって誰よりも騒ぎ出す。それはたちまち伝染していった。皆が我を失って取り乱し、半ば恐慌状態になる。
「なんてこった! ついに心奪の魔法師がこの街に!」
「いやだ! 俺はまだ死にたくねえ!」
大声のせいで通行人が次から次に集まってきた。北地区はギルドや工房が多いから主に職人やその弟子たちだ。
まずは胸の中身をくり抜かれた死体を見た仕立屋と靴職人が、ひゃああと派手な悲鳴をあげ、それにつられた筋肉質の大工の男が無意味に声を張り上げる。とどろくようなその声に、たまたま近くを歩いていた寄付金集めの修道士がひっくり返って尻餅をついた。
「なんですか、何事ですか! 皆で大騒ぎして!」
「これが騒がずにいられるか。心奪の魔法師が来たんだよ! 金貸しが殺されたんだ!」
すると修道士があんぐりと口を開けて固まり、代わりに周りの人々が口を開く。
「この街は平和が売り物だろ。そんなのが出るなんて聞いてねえよ!」
流し芸人のバドが理不尽だという顔で叫んだ。
「とにかく今すぐ早く逃げないと! でも、どこに逃げればいいんだっ?」
貴族の使い走りの少年が半泣きでそう叫び、運んでいた布袋を無造作に放り投げる。
すると地面に落ちた布袋から新品のろうそくが何本もころころと転がり出て、近くを歩いていた酔っぱらいがそれにつまずいて転倒し、弾みで路上に嘔吐した。その飛沫を浴びた運の悪い犬がきゃんきゃん吠えて駆け回り、びっくりした猫も走り出し、ネズミも一斉に逃げ回って、辺りはまさに混沌の極みのような光景と化していたが――。
「皆さん、落ち着いてください」
澄んだ声で大人たちをたしなめたのは意外にもリズだった。彼女は立ち上がると死体のそばを離れ、きびきびと皆の前へ出ていく。人々の視線が一斉に彼女へと集まった。
「心配ないです。これは心奪の魔法師の仕業じゃありません。ちゃんと考える材料は揃っていたんです。わたし、バートラムさんを殺したのが誰なのかわかりました」
心奪の魔法師の仕業じゃないだって……?
予想外の言葉に僕は唖然としたが、彼女の顔には確信が滲んでいた。




