6 店主
静まり返った店内には様々な香りが漂っていた。花の香り、青草の匂い、はちみつの甘い香り、つんとする松脂の匂い……。光源はランプとろうそくの光だけだから薄暗い。入口の先に大きな台があって、その上に売り物の植物の束がふんだんに陳列されている。奥の棚には小瓶や壺のたぐいが数え切れないほど並んでいた。
それだけならたぶん普通の薬草店と似たり寄ったりなのだろうが、この店が変わっているのは横の壁際にくつろぐ場所があることだ。ワイン樽の上に丸い木板を敷いたテーブルがいくつか置かれていて、周りに椅子もある。他に客の姿はなく、僕とリズは今そこに腰かけて店長が来るのを待っているところだった。
話によると、お得意様や気に入った客にだけ、店主が特別に作った不思議な飲み物を振る舞うことがあるらしい。リズも何度かご馳走になったそうだ。
「不思議な飲み物か。薬草を煮出したハーブ水なら何度か飲んだことがあるけど……」
僕が呟くと、樽のテーブルの対面で彼女がくすりと笑う。
「苦いやつですよね? 大丈夫です。あれとは全然違いますから」
「じゃあ安心してもいいのかな」
淡い微笑みを交わしていると、後ろに気配を感じた。
「お待たせしました。店主のマリスキューです」
振り返って一瞬ぎくりとする。そこにいたのは細身のチュニックの上に緑色のロングガウンをまとった若い黒髪の女性。美人だが、どこか普通とは違う気がした。顔立ちはこれ以上なく整っているのに、やけに無表情で、底の知れない混沌とした目をしている。
この人がマリスキュー……。僕が名乗ることも忘れて放心していると、向こうが何か小声で呟いた。本当によい配合でした、とかなんとか聞こえた気がした。
「すみません。今なんて?」
「いえ、大したことではありません、エドガーさん。話は全部リズから聞いています。いろいろと助けになってくれたそうで、心からお礼を申しあげます」
心からと言いつつも、じつに淡々とした言い方だった。公的文書の読み上げのようだ。
「僕はべつに大したことは……」
「行動すること自体に価値があるんです。その対価というわけではありませんが、届いた材料であたたかい飲み物を作りました。ぜひ喉の渇きを潤していってください」
マリスキューはそう言うと、樽のテーブルに白い陶器のカップをふたつ置く。中にはきれいな薄い琥珀色の液体が入っていた。一体なんだろう? 初めて見る飲み物だ。
「これは〈転変の湯〉といいます。今日の気分で私が名づけました。レツオリ草という植物を使って淹れた香草茶――正しくは香草湯です。茶はこの大陸にありませんから」
「はあ……そうなんですか? ちょっとよくわかりませんけど」
「ハーブ水の一種だと思ってください。小鍋で湯を沸かし、乾燥させたレツオリ草を入れて、ふたをして蒸らします。しばらく待って色が変わったら上澄みをカップに注いで完成という至ってシンプルな飲み物ですよ。さあ、どうぞ飲んでみてください」
なるほど、話を聞く限りだと怪しいものではなさそうだ。僕は左手でカップを持って中身を一口飲む。するとその瞬間、芳しい涼風が口の中を吹き抜けた気がした。
まるで広大な草の海を渡ってきたような――。
ああ、なんて豊かな香りなんだろう。様々な生き物が命をつないできた悠久の草原にいるみたいだ。口当たりは清々しく、味はほんのり優しい甘さ。しかし飲み込むと淡い渋味に似たまろやかな満足感と、心地いい野原の香りが残り、腹部がぽうっとあたたかい。
僕は立て続けにそれを飲む。豊穣な自然の恵みが体の中に広がっていく。
「……美味しい!」
「そうですか。では味の方は成功ということですね」
笑ったのだろうか。マリスキューが唇の両端をわずかに持ち上げて続ける。
「レツオリ草は変化に強い植物。土壌によって様々に形を変えます。細くなったり太くなったり、曲がったり変色したり腐ったり。ある部分が弱くなれば他の箇所は強くなります。喪失と獲得は表裏一体。ゆえに〈転変の湯〉と名づけました。ある意味では今の自分を変えたい人にぴったりの飲み物かもしれません」
なんだろう。どこか含みのある言葉に聞こえたのは僕の気のせいだろうか?
「マリスキューさん……?」
「あとはふたりでごゆっくり。わたしは用事があるので失礼します。飲み終えたらカップはそのまま、そこに放置して帰って構いません」
それでは、とマリスキューは一方的に告げると僕の言葉を待つことなく踵を返し、そそくさと店の奥へ立ち去ってしまった。まるで日の出を察して姿を消す幽霊のように。
なんなんだと僕は戸惑う。どういう態度なんだろう。僕とリズは少しの間、無言で顔を見合わせていたが、やがて彼女が少し困ったように微笑んで口を開く。
「あの、心配しないでください。べつに不機嫌なわけじゃないです。マリスキューさんは大体いつもあんな感じです」
「そうなのか……。まあ飲み物を出してくれたのはありがたいけど、ちょっと変わった人だね。商売の方は大丈夫なのかな?」
「ちゃんと儲かってるみたいですよ。ひとりで切り盛りしてるから忙しいんだと思います。接客より、いい商品を作ることに時間を使いたいんじゃないでしょうか?」
「ふうん、職人気質というか、探究心で動いてる人なのかな……。だったらわからなくもないか」
確かに研究家のような雰囲気の人ではあった。そして少し気になることも言っていた。レツオリ草を使った〈転変の湯〉は、今の自分を変えたい人にぴったり。あの発言はなんだったのだろう?
とくになんでもない。そう考えるのが最も妥当だ。マリスキューは今日初めて会った相手で、向こうは僕について何も知らない。もちろんリズから多少は話を聞いたかもしれないが、そのリズだって先日の僕との出来事の他はほとんど何も知らないのだ。つまるところは占いと同じ。謎めいた話しぶりから、僕が勝手に意味を見出そうとしているだけ。
レツオリ草は変化に強い植物で、確かに喪失と獲得は見方によっては表裏一体なのかもしれない。でも僕の駄目になった右手は何ももたらしてはくれなかった。獲得したのは絶望だけだ。なんでも自分の身に引きつけて考えすぎるのは悪い癖だと軽くため息をついていると、唐突にリズが「あの……」と呟くように言い、僕ははたと顔を上げる。
「ん、どうかしたかい?」
「聞いちゃいけないことかもしれませんけど……その、エドガーさんの右手って」
「ああ、そのことか」
彼女が申し訳なさそうにしているので僕は安心させるために微笑んだ。僕が右手を下ろし、ぎこちなく左手でカップを持って飲んでいたから聞かずにいられなかったのだろう。
「べつに構わないよ。この手は不名誉の負傷さ。任務中に岩で潰れて、使い物にならなくなったんだ。こないだ暴漢に手も足も出なかったのも、それが原因でね」
僕は一連の出来事をリズに話して聞かせた。部下を連れてベヒモスの討伐に行き、帰り道で落石に遭ったこと。それで右手の腱が断裂して剣を握れなくなり、騎士としてはもう役立たずであること。何もかもすべて話すと彼女は心苦しそうに華奢な体を縮めた。
「そうだったんですか……。ごめんなさい、辛いことを話させて」
「いや、いいんだ。今日は最初から打ち明けるつもりだったから。そうでないと、こないだ逃げ回るだけだったことの説明がつかないだろ? むしろ話せてすっきりしたよ」
「……ありがとうございます」
彼女が神妙に頭を下げる。そして静かに吐息をつき、そんな状態なのにあの日は助けに来てくれたんですね、とぽつんと呟いた。それから妙に真面目な顔で、なにやら考え事を始める。急に彼女が無言になったので僕が戸惑っていると、沈黙は突然破られた。
「あの、エドガーさん。今からわたしの家に来てくれませんか? どうしても見せたいものがありまして!」
勢いよくそう提案されて、面食らわなかったと言えば嘘になる。見せたいもの? わたしの家? 話のつながりがよく見えない。しかし彼女の瞳が妙にきらきらと光って見えるのは確かで、僕はなんだか目が離せなかった。どうしてこんなに魅力的に輝いて見えるのだろう。まあ、どのみち他にすることもない。気づけば僕はこくりとうなずいていた。




