5 魔法師
あれは三か月ほど前のことだ。
いや違う。五か月ほど前のことだ。いや、そうではない。半年前――あるいは一年前か二年前の出来事だったかもしれない。とにかくその男はなんの脈絡もなくそこにいた。
厚い雲で月が覆い隠された暗い夜更け、寝床でふと目を覚ました私は静まり返った寝室の隅に、いつのまにか黒い影が立っているのを感じたのである。
何者だろう? 目的はなんだ? 難攻不落のこの城にどうやって侵入した?
隣に目をやると妻は寝台で死んだように眠り続けている。ぴくりとも動かず、今は何をしても目覚めないということが理屈を超えて確信できた。
私は寝台を抜け出すと、何かに取り憑かれたように部屋の隅に向かって歩いていく。すると黒い影もまた静かにこちらへ歩み寄ってきた。
それは幽霊を想起させる不気味なローブをまとった男だった。フードを深くかぶっているから顔は見えないが、さぞかし邪悪な容貌なのだろう。これほど異様な瘴気を発する存在が、まともな姿をしているはずがない。
私の対面でその男はぴたりと足を止めた。
「サイラス、お前には悪王の素質がある」
予想もしない言葉を浴びせられて一瞬、頭が空白になる。今すぐ絶叫して頭を掻きむしりながら頭皮を爪で引き裂いて自分を滅茶苦茶に壊してしまいたい――。 そんな理解不能の衝動が脳裏をかすめたが、かろうじて自制心を取り戻して私は問うた。
「貴様……何者だ?」
「私は心奪の魔法師。この世が災厄に満たされることを望む者だ。人間どもの悲嘆は我が心身に活力を与え、秩序の乱れは活動を容易にする。世界はより荒れ果てるべきだ。ゆえに次の王となれ、サイラスよ」
「なんだと」
心奪の魔法師と名乗った男の前で、私の脳裏を目まぐるしく思考が飛び交う。
今のローラス王国の国王、ジークハルト十四世には子がいない。この国の王室で最も重要なのは救世の勇者アルカディオ・ローラスの血統だ。だから必然的に妹のソフィアの血筋に連なる誰かが次の王に選ばれることになる。現国王は今もまだ健在だが、王位を譲る日はそれほど遠くはない。
ジークハルト十四世の妹ソフィアは若き日の大恋愛の末に、このレナス地方を治める貴族マクシミリアンと結婚した。当時マクシミリアンは伯爵だったが、現国王の妹を妻に迎えるということで、急遽、あってないような口実で公爵へと昇格させられたのである。
そのマクシミリアン公爵とソフィア王女が私の両親なのだった。
父マクシミリアンと母ソフィアの間にできた兄弟――それが長男の私サイラスと次男のアンドリューなのである。我々はアルカディオ・ローラスの血を引く、戦闘特性を備えた勇者の血統なのだ。
私たちの両親は既に隠居し、公爵家の長老という名目で屋敷を離れて暮らしているため、血生臭い政治闘争に口を出すことはない。しかし私とアンドリューは紛れもなく次の国王の座を争う存在だった。古い権力者たちに神輿として担ぎ上げられ、互いに対立するように仕向けられた結果、骨肉の争いを長年続けている。一般の人々には決して知られることのない策謀の領域で。
「サイラス、お前には人を惹きつける光がない。宮廷はそう判断している。このままでは知勇兼備の弟に敗れるぞ。既に評議会の一部がお前を退ける筋書きを用意している。手を打つなら今しかない」
「……私にどうしろというのだ」
「決まっているだろう。弟を殺せ」
心奪の魔法師がそう告げた瞬間、私の心臓に真っ黒な種子が埋め込まれた。それはたちまち根を張り巡らせ、内なる闇に養分を送り込んで、不気味なまでに悪意を増幅させる。
「サイラスよ、お前は卑劣にして無能だ。だからこそ真の悪王たる資格がある」
心奪の魔法師はそう告げると闇の中へ溶けるように消えてしまった。




