4 その日
「お客様でございます」
執事がそう言って扉を開けると、画家のヨハンが「あ、どうも……」と頭を掻きながら入ってきた。私にとってはよく知った相手だ。まったく懇意にはしていないが。
ヨハンは三十代の痩せぎすで奇妙な形の口ひげを生やした男である。今日は下品で派手なダブレットを身につけており、町人にしては身なりを整えてきたことがうかがえた。それにしても今日は妻が不在なのに、めかし込んできたものだ。まるで宮廷道化師だった。
「いつもお世話になっております、公爵……。あ、もちろん絵の話です!」
ヨハンが慌てて付け加えるので私は冷ややかに口角を上げる。
「他に何があるというのだ?」
「あっ? いえ! 俺はべつに――」
「茶番はもういい。それで用件はなんだ? どうせバーソロミューと打ち合わせ済みなのだろう? 一体何が狙いだ?」
私が単刀直入に尋ねると、ヨハンは慌てたように背筋をさっと伸ばした。
「えっとですね。その、バーソロミューさんには結構な便宜をはかって頂きまして」
「便宜……? というと金か?」
「はは、まあ、そうなります」
ヨハンが若干恥ずかしそうに、だらしない笑みを浮かべる。この男は金が入ると身の丈に合わない酒と美食に明け暮れる、じつに金遣いの荒い男なのだ。きっと死ぬまで暮らしは楽にならないだろう。そんな放蕩者にバーソロミューが静かに歩み寄る。
「ヨハン、閣下は既にお前と公爵夫人の関係はご存知だそうだ。だから安心して答えてくれ。公爵夫人が最後にお前と会った日はいつだ?」
先ほど私が答えられなかった――答えるわけにはいかなかった質問をバーソロミューが再び口にする。ええっ、バレてたんですか、とヨハンは驚愕して目を白黒させていたが、バーソロミューに「早く!」と鋭く促されて覚悟を決めたようだ。
「十三日です」
ヨハンははっきりとそう言った。
「俺が公爵夫人と最後にその……ゆったり過ごしたのは、先月の十三日です。その後は一度も会ってません。というのも公爵夫人は、なぜかぱったり来られなくなってしまって」
私の背筋を悪寒が駆け抜けた。案の定、バーソロミューが間髪をいれずに続ける。
「おかしいですね? その日、閣下はずっと夫人と過ごしていたはずです。今日もそう言っていましたよ」
もちろん覚えている。その言葉は今日に至るまで幾度となく繰り返してきたのだから。
――『あれが起きたのは先月の十三日か……。まるで昨日のことのようだ。弟の不運を思うと、その日、妻と一緒に呑気に過ごしていた自分がどうにも歯がゆくてならない』
妻も普段からそれを裏づける発言をしていたから、私は事件の場にいなかったという皆の共通認識があった。公爵夫妻の仲睦まじさを疑う無礼者はいない。皆の心にごく自然な形で不在証明を植え付けていたからこそ絶対的な安全圏にいられたのである。
だがそれはまやかしだったことが今、露呈した。事情を知らないヨハンの発言によって王様は裸だと暴き立てられたわけだ。
先月の十三日はバーソロミューの父が落馬事故に遭った日で、その原因は何者かが南方由来の毒の吹き矢を馬に打ち込んだからだという事実が先ほどあきらかになっている。
そして動機の面から考えると、主君とともに馬で駆けつけた部下が吹き矢を放つことはまずありえない。仕える主を殺しても下の者は損しかしないからだ。セイラン館の勢力が弱まって領地が減れば、与えられる恩給も報酬も威光も減る。なんの得もしない。
その反面、私には動機がある。むしろ私にしかない。
弟のことはずっと前から邪魔だったのだ――。
「父は生前よく言っていました。このままお家騒動……兄弟対立が続けば、いつか兄に殺されるかもしれないと。何かあったら調べてほしいと以前からぼくに頼んでいたんです」
バーソロミューのその言葉に思わず舌打ちが漏れる。なるほど、もともと私は疑われていたわけだ。つまるところ彼は最初から私を糾弾するつもりで乗り込んできたのだろう。だからこそ妻とラスリーが不在の日を選んだに違いない。
「父が悲劇に見舞われた状況において、閣下には不在証明がありました。公爵夫人がその日はずっと夫と一緒にいたと前々から吹聴していたため、誰も疑わなかったし、ぼくも疑いませんでした……。でもその証言は偽りだった。実際には公爵夫人はその日もヨハンと密会していたのですから」
一気に畳みかけてくるバーソロミューに返す言葉がなく、私は奥歯をぎりっと噛む。
「そもそもこんな偽装工作をすること自体、本来ならありえません。よほどの事情があったはずです。閣下、あなたはあの日、本当はどこにいたんですか? 答えてください!」
バーソロミューが厳しく追及する。そこからの逃避を試みるかのように私の脳裏から突然どろりと過去の記憶が溢れ出した。海の生き物が吐き出す、ねばっこい墨のように。




