3 画家
「ところで閣下は宗教画がお好きなのですか?」
バーソロミューにそう尋ねられたとき、一瞬どういう意味かわからなかった。
そのとき私はアンドリューの部下について個別に考えるのを諦め、臣下が主君を殺すことで得られる利点について思いを馳せていた。自分の思考の世界へ深く沈み込んでいたため、我に返るのにわずかな時間がかかった。
「宗教? 一体なんの話だ?」
「いえ、ここには聖人を描いた絵が何枚も飾ってあるので。どれも画風が似ていますね」
「ああ……そういうことか」
確かにこの応接室には宗教画が何枚も飾られている。私は明るい声を心がけた。
「大した理由ではない。中央街に妻のお気に入りの画家がいてな。その男の作品だ」
「なるほど、公爵夫人のお好みでしたか」
バーソロミューが形のいい眉を持ち上げ、壁の宗教画のひとつに顔を向ける。しばらく何も言わずに眺め、やや首を傾げながら口を開いた。
「しかし、こんなことを言うのはなんですが、正直それほどの画力は……。いえ、失礼しました。それこそ好みの問題ですね。なんという画家です?」
「構わんよ。まったくもって私も同感だからな。画家の名はヨハンという」
「ヨハン……。あまり名が通っている画家とは言えませんね」
「そうなのだ。じつは妻が幼い子供だった頃、近所に一時期住んでいたらしくてな。ちょっとした幼馴染だ。そのヨハンがどうも仕事がなくて困っているらしく、支援のために妻が宗教画の作成を依頼したのだよ。あれは気立てのよい女だ。いや、よすぎると思わなくもない。おかげで今ではヨハンの冴えない絵が城のあちこちに飾られている」
私が苦い顔でため息をつくと、バーソロミューも困ったような微笑みを浮かべた。
「……気苦労がしのばれます」
「本当にな。この部屋には飾られていないが、妻の肖像画もあるぞ? 妻がヨハンを城に呼んで描かせたものだが、やはりお世辞にもよい出来とは言えん。まるで上達しないあの腕前は、ある意味では才能だな」
私は緩慢にかぶりを振りながら思い出す。
じつを言うと幼馴染どころの話ではなかった。肖像画の制作中、妻とヨハンの心の距離は以前にも増して着実に縮まっていったのである。気のせいでも思い過ごしでもない。ふたりの胸には情熱の火が灯り、視線が交差するたびに勢いを増した。やがてその火はひそかに口づけを交わすまでに大きくなった。
私はその一部始終を扉の隙間から静かに見ていたのだ。
だがそれは今、甥に告げるべきことではない。いつ誰に何をどこまで語るのか。それらを適切に判断できない者は貴族失格だと私はつねづね考えている。
だが結果としては、彼の方が私の規範を大胆に踏み越えてきたのである。ふいに意を決したような顔をすると唐突にこう口にした。
「じつはその件で閣下のお耳に入れたいことがあります」
「なんだね?」
「公爵夫人の……その、よからぬ噂です」
バーソロミューはそう言って黙り込む。私は思わず眉間に皺を刻んだ。公爵夫人とは、もちろん私の妻のことだ。そのよからぬ噂となると――。想像はつくが、無視するわけにもいかない。暖炉の中で燃える薪がひときわ大きく、ばちりと音を立てた。
「構わん。話してみろ」
私が促すと、バーソロミューは申し訳なさそうに睫毛を伏せて話し始める。
「ぼくには中央街に様々な友人がいます。彼らから聞いた話によると、公爵夫人が変装して街の画家のもとへ通っているというのです。そんな馬鹿なと思いましたが、彼らは嘘をつく人じゃありません。仕方なく自分の目で確かめてみることにしました。友人たちから聞いたその画家の名が……ヨハンです。物陰に隠れて見張っていたある日、ぼくは公爵夫人がひと目を忍んでヨハンの家にこそこそと入っていくところを――」
「もういい」
私は鋭く口を挟んでバーソロミューの話を遮った。
「しかし、閣下。これは一度や二度のことではなく……」
「やめてくれ! もういいんだ、バーソロミュー。そのことなら既に知っている」
苦渋に満ちた表情でそう告げると、バーソロミューが目を見開く。
「ご存知……だったのですか」
「ああ、そうだ。今のところ黙認している」
「……どうして?」
心を痛めつつも不思議で仕方ないという顔をするバーソロミューの前で、私は自分の靴の爪先を見ながら長いため息をつく。
「長い結婚生活、魔が差すことはある。今の妻は病で熱に浮かされているようなものなのだ。それとなく仄めかしても意に介さない。かといって正面から問い詰めれば、取り返しのつかない破綻を招きかねん。立場上それは許されないことだ。だから待つ。熱が下がって目を覚ますのをな。所詮はいっときの気の迷いにすぎないのだから」
「閣下……」
「すまないが、これは夫婦間の問題だ。これ以上は口を出さないでくれるか」
私が厳かな態度でそう頼むと、彼は「それでは、あとひとつだけ」と素早く続ける。
「公爵夫人が最後にヨハンと会った日をご存知ですか?」
私は思わず困惑した。これは……どういう意図の質問だろう? 妻が最後にヨハンと密会した日をバーソロミューは知っているということか。ヨハンの家を見張っていたのなら知っていてもおかしくない。しかしなぜそんなことを訊く? なんの意味がある?
「はて、いつのことなのだろうか」
真意を測りかねていると、ふいにバーソロミューが椅子から立ち上がり、窓際に向かって颯爽と歩き出した。窓辺に立った彼は懐から銀の手鏡を取り出すと、指で器用にくるりと回転させる。くるり、くるりと――。一体何をしているのだ?
私は不思議に思ったが、それからまもなくのことだった。応接室の扉が控えめに叩かれて聞き慣れた執事の声がする。
「……閣下、急を要するという来訪者がございます。画家のヨハン様です」
執事の返答に私は驚いて窓辺のバーソロミューに顔を向けた。彼は何も言わなかった。その表情は普段どおり温厚そうで落ち着き払っているが、内心はうかがいしれない。
「構わん、ここへ通せ」
私は平静を取り繕って執事に告げる。そうしないわけにはいかない。
バーソロミューはヨハンのことを最初から知っていた。事前に街から連れてきており、外に待機させていたのだ。そしてヨハンは彼の指示を待って来訪する。おそらく今、窓から外に手鏡で光を反射させたのが合図だったのだろう。
つまるところバーソロミューは私がヨハンについて何をどこまで知っているのか、探りを入れていたと考えるべきだ。単に私と妻の関係を心配していたわけではなく、他の思惑がある。思えば昔からバーソロミューは頭のいい少年だった。それはわかっていたつもりだが、彼はとっくに賢いだけの「少年」ではなくなっていたということだろう。
「バーソロミュー、何を企んでいる?」
「企んでいるだなんて、とんでもない。ぼくはただ――」
バーソロミューが最後まで言い終える前に応接室の扉を叩く音がする。
「お客様でございます」




