4 月
こうしてロムはフレームヴェインの館にやってきたのである。
私にとっても新鮮な生活が始まった。戸惑うことも多少はあったが、裏を返せば刺激的で心が躍る日々だった。
当初は一時的な客人という立場だったが、ロムが館に溶け込むのは思いのほか早かった。おそらく良家の出身なのだろう。傭兵になる前のことは語りたがらないものの、礼儀も作法も申し分なく、食事の仕方もきれいで、使用人たちの間でも非常に評判がよかったからだ。
父と母が生きていれば、きっと気に入ってくれたはずだと思う。私の両親がなぜ死んだのかは思い出せないが――不思議なことにその部分の記憶はぽっかりと抜け落ちてしまっている――この館では最も古参の老執事もロムのことをこう評していた。
「お嬢様、あの方はこのフレームヴェイン家の真価をまだ十分にはご存じありません。しかし学ぶことを怠らない姿勢は評価に値します。世の中、そういう人間は案外少ないものでございます」
礼儀正しくも普段は手厳しい老執事までがそんなふうに褒めるので、私は思わずまばたきして言葉に詰まってしまったほどである。
さておき、それからロムとはいつも一緒に仕事をした。フレームヴェイン家に舞い込む竜退治の依頼には毎回欠かさず付き合ってもらった。
私が見込んだ通り彼は優秀で、支援はこれ以上なく心強かった。というのも私のドラゴン催眠は一度に操れる相手が一匹に限られている。だから敵が複数の場合は混乱を誘いつつ時間差で倒していくのだが、彼が陽動で他のドラゴンを引きつけてくれるおかげで、今まで以上に安心して楽に仕事をこなすことができたのだ。勝利の祝杯も自然と余裕溢れる楽しいものになった。
彼と組んでいればすべて完璧。ずっと隣にいてほしい――。いつしか私は自然とそう思うようになっていった。
時は風のように通り過ぎる。夏が終わり、秋と冬が訪れて、同じように去っていく。
一か月前ほどにはこんな出来事があった。まだ少し肌寒い春の夜のことだ。
その晩、自室の窓から冴え冴えと輝く満月が見えた。なんとなく心を惹かれた私はひとりで庭にふらりと出て、とくに意味もなく夜空に浮かぶ明るい月を眺めた。
「うん、いい月……」
そうとしか表現できないほど、輪郭がくっきりしていて気持ちのいい白い満月だった。
そしてふと考える。自分が今感じているように、自分より前の時代を生きた人々も同じことを思っただろうか。父や母や――それこそ何十年、何百年も前の人々も。
きっと思ったに違いない。昔は月が存在しなかったとは、どんな文献にも書いていないからだ。人間に喩えるなら、月は我々とは比べ物にならないほど長寿の、不老不死の存在みたいなものだろう。私たちの人生は月から見れば、ほんの一瞬の出来事にすぎない。
私は今こうして月を見ているけれど、月にとってはまばたき程度の刹那の出来事なのだ。
「そう考えると、なんだか不思議――」
ぽつりと呟いた直後、ふと背後に人の気配を感じる。振り返るとロムがいた。
「何が不思議なんだい?」
「……べつに。ただの独り言だよ」
なんとなく気恥ずかしくて私が素っ気なく答えると、ロムは柔らかく微笑んだ。ゆっくりと近づいてくると私の隣に立ち、頭上の満月を見上げる。今夜の彼は濃紺のダブレットの上に短いガウンを羽織っていた。なかなか様になっている。
「きれいな月だ」
やがて彼が夜空を見上げながらそう言った。
「同感。汚い月って想像できないけど」
「はは、確かに一理ある。ところで知ってるか? 満月には人の心をおかしくさせるっていう言い伝えがあるんだ」
「もちろん知ってるよ。なんの根拠もない古い迷信だけどね。その証拠にほら、私も君も全然おかしくなってない」
「そうかな」
そうでしょ、と私は答えなかった。答えられなかったという方が正確だろうか。隣のロムが距離を詰めて私のすぐそばまで歩み寄っていたからだ。目と目が合い、思考が飛んで頭の中が一瞬空白になる。彼の表情はいつになく真剣で、なぜか目が離せなかった。こうして改めて見ると全然嫌いじゃない。むしろこれ以上なく素敵だと思う。
いや、そんなことは前からわかっていた。だからその場を動かない。
彼が私の腕に手を添えて、そっと顔を近づける。私は瞼を閉じ、そして静かに口づけを交わした。これは春の夜が見せた夢だろうか。月に惑わされたのだろうか。
「……おかしくなってない。俺も君も」
彼はささやくように小声でそう言うと、夜の庭から立ち去ったのだった。
――というのが一か月前の出来事である。
恥ずかしながら私にとっては初めての経験だったから、気にしないふりをしつつも内心かなり気になっていた。あの口づけにはどんな意図があったのだろう。ただの衝動? 気持ちの確認? それとも――。考えるたびに自分らしくもなく妙にどぎまぎしてしまう。
ロムのやつ、意図くらい説明してくれればいいのに。言いにくければ紙にでも書いて渡せばいいものを。
そんなことを日々思っていた矢先、手紙が届いたのだった。同じ館に住んでいるから私の部屋の机の上にぽつんと封筒が置かれていただけだが。
『今日の夕方、青の塔の鐘が六回鳴り響く頃に、静寂の泉で待っている。 ロムより』
そんな内容が手紙には書かれていた。静寂の泉というのは近くにある美しい湧水が出る場所で、昔から恋人たちの逢い引きによく使われていたらしい。
だから私は直感した。きっと先日の口づけは彼なりの愛の表現で、今日は正式に思いを打ち明けてくれる。そして私は求婚されるのだろうと。
そういうわけで――どういうわけか自室で居眠りしていたが――目覚めたあとの私は慌ただしく館を飛び出し、大急ぎで静寂の泉に向かっていたのである。




