1 目覚め
中央街の青の塔で、時を告げる鐘が六回打ち鳴らされる頃――。
冷たいベッドの上で私は目を覚ました。
窓から差し込む夕陽で室内は赤みを帯びた橙色に染まっている。いつのまに眠っていたのだろう。なぜか心臓が激しく脈打っていた。身を起こすと背中に鈍い痛みが走る。何か悪い夢を見ていた気がするが、不思議なことに内容がまるで思い出せない。
いや、待って。思い出せないのは夢の内容だけじゃない。目覚めたときに普段なら意識するまでもなく成立しているはずの自己認識がごっそりと欠けている。
今日の私はどんなだった? ここでうたた寝する前の自分は何をしていたのだっけ? そもそも――私って誰?
わからない。
自分が女で、子供ではないことは理解している。体は成熟していて、手足も長くすらりとしている。身につけているのは紫色のキルトのワンピースと薄手の外套。飾りのついたベルトと手袋もしているから、外出から帰ってきたところ――あるいはその予定があるのだろう。しかし自分がなんという名前の、どんな人間なのかを思い出すことができなかった。不可解という言葉ではとても言い表せない異常な状況。なんだろうこれは? もう眠気はとっくに覚めているのに私はどうしてしまったのだ?
とはいえ、覚えていることもある。
ここは一部の界隈では名の知られたフレームヴェイン家の館。そして今いるのは私の自室だった。清潔な亜麻布のシーツが敷かれたベッド、漆喰で仕上げられた白い壁、そこにかかった聖人の宗教画。どれも幼い頃から見慣れている。だから私がこの館の家族の一員であることは間違いない。
「私は……フレームヴェイン家の誰?」
真剣に頭をひねるが、どうしても答えが浮かんでこなかった。
にもかかわらず、どうでもいいこと――例えば昨夜の夕食の内容などは妙にはっきり覚えていたりするのだ。白パン、玉ねぎのポタージュ、ローストチキン、えんどう豆とベーコンの煮込み。夜食には乾燥イチジクとあんずの甘いタルトも食べた。
しっかり覚えていることと、まったく思い出せないことが混在している。
自分の名前はわからないのに、隣の家の住人の名は全部言える。六歳のとき初めて馬に乗った日のことは鮮明に脳裏に焼きついているのに、今日の出来事はなにひとつわからない。まるで虫に食われて穴だらけになったキャベツの葉だ。子鹿の背中の白い模様みたいに記憶がまだら状に抜け落ちてしまっている。
一瞬ぶるっと体が震えた。記憶の欠落がこんなにも不安を掻き立てるものだとは想像もしなかった。なんだか自分が自分だと思えない。そんな私をどう扱えばいいのか私自身が判断できない。ひとつのまとまりを持った信頼できる自己像をすっかり見失ってしまっている。
今の私は事実上、様々な断片に分裂しているのだ。背中が再びずきりと鈍く痛む。
しかし気は急いていた。体の奥にある、この妙にそわそわした衝動はなんだろう?
「そうだ。ロムのところへ行かないと」
はたと気づき、私は弾かれたように立ち上がった。
ロム――彼のことは覚えている。今日は彼から手紙で呼び出されていたのだ。夕方、青の塔の鐘が六回鳴る頃に静寂の泉で待っているから来てほしいと。
先ほどちょうどその回数の鐘が鳴ったところ。つまり待ち合わせの時間はもう過ぎている。ロムはどれくらい待っていてくれるだろうか? わからないが、静寂の泉はそれほど遠い場所ではないし、今から急げば会える可能性は充分にある。
「もう少し待ってて、ロム!」
私は自分の部屋を飛び出すと、粗い布の敷かれた階段を駆け下りていった。
手すりにまたがって降りてはなりませんよ――と記憶の中の誰かが言った気がした。




