3 マリスキュー
マリスキューと名乗った女の人は落ち着き払った態度でそう語る。少しの間ラスリーは面食らった顔をしていたが、やがて馬から飛び降りた。手綱を持って一歩だけ近づく。
「花の香りに誘われて……迷い込んだということですか? そして植物を摘んでいる?」
「他にどう聞こえますか?」
「いえ……わかりました。森の恵みを採るのは構いません。ところであなたは僕たちを知ってるんですか? 今、高貴な血と口にしていましたが」
「まったく。良い服を着ているので貴族の子だと思っただけです。私は昔から不思議と彼らとは縁があって見慣れているんです。衣類というものも少しずつ進歩していますね」
どこか達観したような浮世離れした言葉に、ラスリーはあきらかに困惑した様子だった。
しかし敵意や害意が感じられないのは確かである。このお姉さんは危険人物ではなく、植物の専門家だけに少し変わり者なのだろう。ぼくは馬から降りて手綱を握ると、ゆっくり近づきながら口を開いた。
「はじめまして、マリスキューさん。ぼくはバーソロミューといいます。そこにあるのは焚き火台ですよね? お湯を沸かして植物をどうするんですか?」
「飲み物を作るんです。植物の風味や薬効は湯の方が引き出しやすいんですよ。あなたたちは香草湯を知っていますか?」
「いえ……わかりません」
ぼくが正直に答えると、マリスキューはかすかに頬を緩めた。
「そうですか。では、せっかくなのでご馳走しましょう。これはわたしのとっておきの作品のひとつなんです」
マリスキューはそう言うと足元の袋から小さな箱を取り出し、その中に入っていた刻んだ植物を木匙ですくって火台の上の鍋に入れた。その瞬間、ふわっと香りが立ち、ぼくは思わず鼻をくんくんと動かす。
鍋にふたをしてしばらく蒸らしたあと、マリスキューは湯の上澄みを手際よく二個のカップに注ぎ入れた。そして一個ずつ、ぼくとラスリーのもとへ持ってきて手渡す。
なんの警戒もせずにカップを受け取ってしまったのは、きっと湯から漂う芳香のせいだろう。胸がすうっと晴れていくような、じつに気持ちのいい香りなのだ。それがあまりにも魅力的で、とても抵抗できない。そのままカップに口をつける。
最初に透き通るような淡い酸味が走る。それから喉をすべるように澄んだ湯が体の中へなめらかに落ちていった。少し遅れて野いちごのような甘さが広がり、舌の上にじわりと残る。なんだか今すぐ歩き出したくなるような、わくわくする後味だった。
「んーっ……」
ぼくは思わずその場で軽く足踏みをして、カップを持ったまま片手で伸びをする。
「美味しいっ!」
「それはよかったです」
マリスキューが満足そうにうなずいた。ぼくの隣で、今やすっかり警戒を解いたラスリーも美味しそうに飲み物を味わっている。
「これはリューリ草で作った〈遠花の湯〉といいます。リューリ草は生まれた土地では花が咲きません。芽は出て葉も茂りますが、開花しないんです。ところが根分けして遠くの土地へ移すと豪奢な花を咲かせます。生まれた場所の土と、移動先の土の成分に差があればあるほど素晴らしい風味になるようです」
「へえ……そんな植物があるんですね」
「別離によってこそ、大きく花開く草ということです」
マリスキューは意味深な口調で続けた。
「その〈遠花の湯〉は美味しいでしょう? とりわけ遠くから旅をしてきたリューリ草を使っているからです。別れは成長に欠かせない肥料。わずかな酸味と野いちごの甘さとともに、その薬効は心に深く染み込むはずです。いつかどこかへ旅立つときのために」
気のせいかもしれないが、マリスキューの話は示唆的で、ぼくに様々なことを考えさせた。植物についてだけではない。離別は必ずしも悲しいものではなく、ときには人にとって喜ばしい祝福になる場合もある。彼女はそう教えてくれているのだと思う。
でもそれについて考えると、胸が切なく締めつけられるのも確か。理屈を超えて物悲しい気分になる。
というのも、いつか――近いうちにぼく自身にもそんな別れが訪れるかもしれないからだ。
ぼくはラスリーを兄のように慕い、だから今回も無理を言ってホワイトフォード城に連れてきてもらった。しかしそれは父上から「いつかラスリーとは袂を分かつことになるから、あまり親しくなるな」とつねづね釘を刺されているからでもあるのだった。
いずれ関係を断つのだから距離を取れ――。そう言われているからこそ逆に強まってしまう感情もあるということだ。ぼくは決して意固地な性格ではないのだけれど。
父上がラスリーとの交友に賛成しない理由は単純で、近いうちにお家騒動が起こるかもしれないからである。
今のローラス王国の国王陛下には子供がいない。そしてこの国の王室で最も重んじられるのは救世の勇者アルカディオ・ローラスの血統だ。だから次の王位はほぼ間違いなく、国王陛下の妹の血筋に連なる誰かに割り振られることになる。
そしてその継承争いに、サイラス伯父上とぼくの父上も巻き込まれそうなのだった。
もちろんサイラス公爵が次の国王になるのが一番いいが、どうもぼくの父上を抱きこもうと様々な者が暗躍しているらしい。古い権力者たちは公爵以上に広い人脈を国中に張り巡らせていて、その有形無形の力には恐ろしいものがある。否でも応でも、ぼくらも陰謀に組み込まれるかもしれないから、覚悟だけはしておけと父上は言うのである。
兄であるサイラス公爵と争うなんて、父上が望むはずがないのに――。
しかし望まなくても勝手に結果だけが降りかかることもある。
だったらぼくも望まないのに、ラスリーと別れる羽目になることがあるのだろうか?
「おい、バーソロミュー。……バーソロミュー!」
「はっ?」
ふと気づくとラスリーが間近に来ていた。
「カップが空だぞ。のんびりしてる場合じゃない。飲み終わったのなら、そろそろ行こう」
言われてみればそのとおりで、ぼくは既に〈遠花の湯〉をきれいに飲み干していた。不思議な香りに魅了され、すっかり自分の世界に迷い込んでいたらしい。
ぼくとラスリーは空のカップをマリスキューに返す。それから馬を森の手前の太い木につないだ。ラスリーが礼儀正しくあごを引いて口を開く。
「マリスキューさん、ご馳走になりました。我々はこの辺で失礼します」
「ありがとうございました。香草湯、とても美味しかったです」
ぼくも礼を言って軽く会釈した。
「お気づかいなく。これは私にとっても必要なことですから。ふたりとも、森の中で道に迷わないように気をつけてください」
どこまでも淡々とした態度のマリスキューに見送られ、ぼくとラスリーは昼なお暗い森の中へと足を踏み出した。




