8 一件落着
すべてが一件落着したあと、私はマリスキューの店でひと休みしていた。
さすがにあの場で湯に浸かるのは気が引けたので、だったら――と空いた時間で中央街の仕事相手の店に香草湯を飲みに来たのである。普段あまり来ることはないが、まあ口の堅い誰かに話を聞いてもらいたかったという理由もあった。
「そうですか。それは大変でしたね」
チュニックの上に緑色のロングガウンをまとった美人店主、マリスキューが淡々と感想を述べた。まったく大変だと思っていなさそうな平坦な口調だったが、仕事で付き合いが長いベイコンは知っている。彼女はいつも、どんなときでもこうなのだ。
「まったくお恥ずかしい限りです。最初にやり方を間違えて手間取ってしまった。金を盗めるのは関係者だけで、あの場にはそれが全員揃っていたのだから、ひとりひとりをじっくり掘り下げて検証していくべきだったのです。たった五人しかいないのですからね」
ベイコンの言葉にマリスキューは無言でほんのわずかな微笑みを浮かべる。どんな意味が含まれた微笑みなのかは神のみぞ知るというところだ。
ベイコンは一連の出来事を思い出しながら再び口を開く。
「とはいえ、あの白い毛……。あれが白髪ではないことに気づいてからは、すぐに考えがまとまりました。あれは動物の毛だったのです。施設の入口に落ちていたものと同じ毛が殺人者の服にも付着していましたから」
そして肝心のかんぬきにもべつな痕跡が残っていた。まるで釘で引っ掻いたような小さな傷が何本も、屋内から見て右端に当たる部分についていた――。最初に見たときはその意味に気づかなかったが、端の部分は最も力が入る部分だから、動かすときに爪の痕が残ってしまったのだろう。
種明かしをすると、殺人者はアライグマを飼っていた。白と灰色の毛を生やした獣の相棒だ。殺人者は金の入った鉄箱を持って外に出たあと、アライグマにかんぬきをかけさせたのである。そして一仕事終えたアライグマは拳ふたつ分の大きさの通気口から呆気なく外へ脱出したのだった。あとで通気口を調べたら同じ毛が大量に付着していた。
もっとも私も最初はなんの動物なのかまでは特定できなかった。白毛の猿かもしれないとも考えた。しかし重要なのはあくまでも動物を使ったという仕掛けであり、動物の種類ではない。そんなものは本人に訊けばいい。
そして私は、通いの雑用係の半ズボンに同じ毛が何本も付着しているのを改めて確認しながら、皆の前で指を突きつけてこう言ったのだった。
「殺人者は……あなたです。あなたは珍しい動物を飼っていますね?」
突然、彼は怒りを押し殺すような顔になって沈黙したが、周りの人々が教えてくれた。
そうです、彼は親に死なれた幼いアライグマを昔から育てており、とても懐いているとよく自慢していますと。
メスのアライグマだから、アンジェラという名前をつけて可愛がっていますと――。
この瞬間、私の仮説ははっきりと真相に格上げされたのである。
私がかんぬきの偽装工作とアライグマの関係について説明すると、即座に確かめに行こうという話になり、皆で逃げないように気を配りながら雑用係の家へ向かった。
家はすぐ近くだった。屋内では一匹のアライグマが放し飼いにされていて、その毛は私が浴場治療院の入口で拾ったものと同じだった。盗んだ鉄箱も見つかった。もはやどんな言い逃れもできず、かくして雑用係はペトル医師を殺したことを認めたのだった。
なんでも少し前から、かんぬきの操作を仕込んでいたらしい。まずはかんぬきを半分だけ入れた形にしておき、自分が外に出て扉が閉まったのをきっかけにアライグマが行動に移る。といっても、おおむね前足で押すだけだから簡単なものだ。うまく施錠に成功したら好物のいちじくを大量に与える。そんな手順で訓練したのだという。
まあ、それは本題とは関係ないことだ。雑用係はバーベッジに殴られて気絶し、そのまま治安官たちに連れていかれた。近々しかるべき裁きを受けることになるのだろう。それが本当にペトル医師の魂の慰めになるのかどうかはわからないが。
「アライグマは賢い動物ですからね。私の畑もよく荒らされます。彼らは手先がとても器用で、瓶の蓋くらいすぐに開けるんですよ。簡単な鍵なら楽勝です。驚くほど小さな穴から勝手に家に入り込んでもきますし……。まあ厄介な連中ですよ。でも、それに悩まされた経験が今回は解決の助けになりました」
私が苦笑まじりにそう言うと、マリスキューは無表情で「やはり優秀ですね。アデプタスの末裔は」と呟いた。
「え? そうでしょうか……。私は中立です」
「わかっていますよ、ベイコンさん。さて、それでは今日は珍しい品をご馳走します」
マリスキューはそう言うと店の奥へ消えた。まもなく白い陶器のカップを持って戻ってくると、私のテーブルの上へことりと置く。
「おお」
カップの中にはうっすらと淡い金色の液体が入っていた。新作だろうか?
「北の地で育つジュヨ草を使った〈命緩の湯〉といいます。あなたほど腕のいい栽培師ではありませんが、これはなかなかいい出来だったので、ぜひ味わってほしいと思って」
「ああ……北の栽培師が手がけたものですか」
彼女は大陸のあちこちに私のような栽培師を抱えていると聞いたことがあった。確かにたまには同業者の育てた香草がどんなものかを知るのも悪くない。私はカップを持って香草湯に口をつける。
その瞬間、幻の花畑に迷い込んだような香りが広がった。
とうに日の盛りを過ぎ、灰色がかった薄い光に包まれた黄昏の花園だ。そこは無人で謎めいているが、まろやかな優しい空気が流れている。まるで美しい夢のように人生の苦味など何も存在しない。ただただ薄く溶けていくような甘さが静かに心を慰めてくれる。
これはある種の人々にとって理想の風味だろう。私にとってもそうだろうか?
私にとっての理想はいつも茫洋としていて掴みどころがない。でも、だからこそ限りない甘美さでいつまでも私を魅了し続ける――。
ほんのりと甘い〈命緩の湯〉を飲みながら私の脳裏にはそんな様々な思いがよぎった。
「いい味です」
実感を込めて私が言うとマリスキューは小さくうなずく。
「ジュヨ草は派手な香りを持っていません。含まれる成分にも即効性はありませんが、その分しっかり体に取り込まれて長く残ります。血の巡りが若干よくなって心臓の働きも少しだけ整うことでしょう。ささやかですが、人間が長生きするためには大切なことです」
マリスキューの言葉を聞き、つまり自分は長生きしてほしいと思われているわけか、と私は考える。つい苦笑するが、嬉しくもなった。家族のいない独り身の自分にはありがたいことだ。素直にそう考えておこう。
「ありがとう、マリスキューさん。この湯はとても質のいい甘さで、体にゆっくり染み込むようです。でも、私は三十三ですよ? まだまだ死ぬような年ではありません」
冗談めかしてそう言うと、マリスキューも少しだけ微笑んだ。
それから私はふと、良いことを思いつく。持ち歩いている革の袋から、密閉できる小さな壺を取り出した。ふたを開けて中の液体を〈命緩の湯〉にとろとろと注ぎ入れる。
「ベイコンさん、それは?」
「きれいでしょう? はちみつです。じつは最近、畑仕事のついでに養蜂を始めたのですが、これが面白いくらいよく採れましてね。料理にも飲み物にも毎日たっぷり使うようにしているのです。そうしないと消費が追いつきませんから、はは」
私は壺の中のはちみつを八割ほどカップに注ぎ、それから残りは壺のまま、ひと息にぐいっと飲み干した。野生味の溢れる濃厚な甘さが喉を通り過ぎていく。
マリスキューが少し呆気に取られた様子で口を開いた。
「ベイコンさん、まさかそれを毎日?」
「ええ。この壺で五個分ほどの量のはちみつを毎日摂っています。それが何か?」
透明な沈黙の天使が緩やかに我々の間を通りすぎていった。やがて彼女はぽつりと呟く。
「さすがに多すぎます。太りますよ」
「え?」
そのとき、私ははたと気づいた。もしかすると最近、妙に腹が出てきたのは悪い病気だからではなく、毎日大量に摂っているはちみつの――。
外では中央街の青の塔が高らかに鐘を鳴らして正午を告げていた。




