4 ガーゴイル
それが昼前の話である。おそらく今は午後の半ばというところだろう。
あれから私はお抱えの職工が試作した乗馬服――ワイン色のライディングハビットに着替えると愛馬に飛び乗り、単身レナス地方へ向かった。地理は頭に入っている。誰も追いつけない風のような速さで街道を駆け抜けた。
私は生まれつき体を動かすのが得意で、馬術にも長けている。騎士団の精鋭でも私を上回る者はほとんどいないだろう。自惚れではなく事実である。私は正統な王家の血を引いているからだ。
千年前この世界は魔人族に支配されていたが、救世の勇者ことアルカディオ・ローラスが魔王を倒して魔人族を駆逐し、この国を築いた。それまで人間は魔人族の奴隷だったのだそうだ。その偉大な初代国王の血を私たちは受け継いでいる。
救世の勇者アルカディオ・ローラスは人間離れした膂力と俊敏さの持ち主だったと歴史書に記されているが、父上や私やジーク兄様にもその性質が受け継がれていて、強さは普通の人間とは比べ物にならない。識者はそれを戦闘特性と呼ぶらしい。並みの兵士が十人いても私たちの敵ではなく、大抵の魔物は恐れて逃げ出す。そうした事情もあって、私は誰にも阻まれることなくレナス地方へ到達し、辺境へと至ることができた。
やがて広い丘を超えると、視線の先に白い煙がいくつも立ちのぼっている。遠くの山のふもとに小さな村があった。馬を止めて目を懲らすと――私の視力は腕利きの狩人を上回る――煙の下には茅葺き屋根の家がぽつぽつと建っている。群れをなす羊の姿や風車小屋や小さな教会も見えた。
「あれがランパシーの村ね」
果たしてマクシミリアンは無事だろうか? 私は手綱を握り直し、「ヤッ!」と掛け声をあげて再び馬を走らせる。
だが駆け出してまもなく、後ろから呑気な声が聞こえてきた。
「おーい! そこのあなた!」
振り返った私は唖然とする。声の主はマクシミリアンだった。彼は驚いた様子で遠くから馬でまっすぐこちらへ近づいてくる。
「ああ、やっぱり王女殿下だ! まさかこんな場所で会えるなんて。今日は一体どうしたんです? お忍びでレナス地方の見物ですか?」
間近で馬を止めたマクシミリアンがそう言って私に微笑みかけた。食事は毎回きちんと摂っているようで、顔の血色はよく、小憎らしいくらい肌もつやつやである。
「……元気そうね、マクシミリアン伯爵」
「それはもう! この元気を銀の匙ですくって殿下に分けてあげたいくらいです」
「あいにく間に合ってるわ。それより伯爵、あなた窮地に陥っているんじゃなかったの? ずいぶんと悩んで、食事もろくに喉を通らないってジーク兄様に聞いたのだけど」
「ああ、書状の件ですか」
彼は悪戯好きの猫のような顔をした。
「誤解させて申し訳ありません、王女殿下。つい筆が滑ったようで……。退屈な書状では王太子殿下に失礼だと思い、レトリックに懲りすぎてしまいました。もちろん食事で喉をつまらせたことはあります。ただ、すぐに上質な美味しいワインで流し込みましたから平気です。心配してくださって誠にありがとうございます」
「……誰も心配なんかしてない」
私はむすっとした顔でそう言うしかなかった。
まんまとしてやられた気がする。マクシミリアンは今のような状況になるのを期待して大げさな書状を書いたのかもしれない。いや、さすがに疑い深すぎるだろうか。
「それで問題の魔物……大人の三倍以上もある巨大ガーゴイルとやらはどこ? まさかそれもレトリックだなんて言わないでしょうね?」
「いえ、残念ながら本当の話です。早速ご案内しましょう。なかなかの奇景ですよ」
「奇景?」
ガーゴイルと景色にどんな関係が? 意味がよくわからなかったが、ひとまず彼に先導されて馬を走らせた。村の入口には向かわずに迂回して、山の傾斜の下に広がる大麦畑を目指す。麦よりも風に強く、痩せた土でもよく育つ大麦がさざ波のように風にそよいでいた。畑の合間の農道を駆け続けていると、やがて一面の緑の先に武装した兵士が数人ほど立っているのが目に入る。
「心配ありません。彼らはレナス衛兵団という伯爵家直属の兵です。ぼくの部下ですよ」
マクシミリアンが馬上から私を振り返って告げるが、心配はしていなかった。それよりも彼らの近くにそびえる灰色の奇妙なものに度肝を抜かれていた。
大麦畑の隅――マクシミリアンの部下たちのそばに大きな丸い岩がある。いや、大きいなんてものではない。王都の教会の鐘よりも巨大な岩が畑の端にずしりと居座っているのだった。辺りは一面の平地で、他には岩なんてどこにもない。石だって簡単には見つからないくらいなのに、その巨岩だけがあまりにも唐突で場違いだった。
「一体なんだというの?」
「驚くでしょう? あれが噂の巨大ガーゴイルです」
「……なんですって?」
「あいにくと逃げるやつじゃありません。まあ、じっくりとご覧になってください」
馬でゆっくり近づいていくと、マクシミリアンの部下たちが私を見て一瞬ぎょっとする。王女がなぜここにいるのかと混乱しているに違いなく、しかし言葉には出さずに背筋をぴんと伸ばすと、武器を地面に突き立てて凜々しく敬礼した。
マクシミリアンが制止するように彼らに片手を上げる。
「やあ、いいんだよ、そんなに驚かなくて。それより君たち疲れただろう? 見張り役を交代するから、しばらく外してくれないか? なるべく急ぎで」
「はっ、ご命令のままに!」
じつに従順な部下たちである。彼らが素早くその場を離れると、私とマクシミリアンのふたりだけが残された。私は手綱を握ったまま馬から降り、巨岩をまじまじと観察する。
そして驚かされた。これは――彫刻だ。岩石の表面をノミや槌で何年もかけて地道に削ったのだろう。やや傾いてはいるが、生き物の顔が彫られていた。尖った耳、ぎょろりとした目、裂けたような大きな口からは牙が覗いている。
「……ガーゴイルだわ」
「洞察に感服いたします、殿下」
いつのまにか馬から降りていたマクシミリアンが慇懃に頭を下げる。
丸い巨岩はガーゴイルの頭のような造形に仕上げられていた。じつに奇妙な光景だ。だってそうとしか言えない。どういうわけかは知らないが、岩を彫って作った巨大なガーゴイルの頭部が、風にそよぐ大麦畑の隅にぽつんと俯き加減にそびえているのだから。
「意味がわからない……。なにがどうなってるの、伯爵? 詳しい話を聞かせて」
「殿下の仰せのままに」
マクシミリアンは芝居がかった一礼のあと、こんな話を始めた。




