2 庭園
「王女殿下! やっぱりここに!」
振り返ると、親しい侍女のひとりが慌ただしく駆けてくる。それで私もようやく本当に我に返った。
ここはローラス城の中にある城内礼拝堂だ。人が少ない時間帯だから心を落ち着けるのにうってつけだと思い、単身こっそりやってきて柱の陰の椅子に座り、とりとめのない思いに長々と耽っていたのである。目の前では壁のステンドグラス越しの光の中を埃がゆっくり舞っている。昔から私はひとりになりたいときはここに来るのだった。
「王女殿下、お忘れですか? 今日は巷で噂の香草師が王宮に招かれています。もうすぐ披露の会が始まりますよ。急がないと」
「ああ……思い出したわ。言われてみれば今日だったわね」
私が呟いた直後、ごおんと時を知らせる鐘の音が響く。続けざまに四回鳴ったから今は昼前の間食にちょうどいい時間。披露の会もそれをめどに始めるという話だった。
「うん、確かに急いだ方がよさそう」
「服装は問題ありません。直接向かいましょう。皆様、もう庭園に集まっております」
昼の宮廷用の葡萄色のドレスを着ていてよかった。正装とは言えないが、今回はこれで充分だろう。
侍女とともに足早に礼拝堂を出ると、静謐な空気が日常的なものに変わる。人々のざわめきと城内の生活の匂い。私が幼い頃から慣れ親しんでいるものだ。
辺りの壁は灰色の石造りで、あちこちにローラス王家の紋章を描いた豪華な織物が飾られている。どこまでも長い廊下を私たちは半ば小走りに進んでいった。
石段を下りて駆け足で進み、まもなく庭園に入ると、芝生の上には既に大勢の人が集まっていた。整えられた低木と、あちこちで咲く多彩な花。静かな水音を立てる噴水のそばに木製のテーブルと椅子が整然と並べられ、薄い布がかけられた卓上には銀の食器や白い陶器などが置かれている。
幸いにも会合はまだ始まっていないらしい。客人である貴族の子弟や学者たち、それから招かれた香草師らしき者の姿はあったが、父上と母上は見当たらなかった。侍女はほっとした様子で仕事場へ戻り、私は何事もなかったかのようにテーブルへ向かう。
「遅かったな、妹よ」
ふいにジーク兄様――王太子ジークハルト十四世――が気楽な調子で話しかけてきた。
「兄様こそ早いのね。一応ちゃんと間に合ったわ。父上と母上は?」
「まだ来ていない。きっと母上が例によって鏡との対話に手間取っているんだろう。父上はやきもきしながら横でそれを待ってる。いつものことさ」
「まったく。うちの家族ときたら」
「お前も似たようなものだろ?」
「違います」
軽く言い合っていると、やがて私たちの両親こと国王と王妃が庭園に姿を現した。
「皆様、お待たせしてしまったわね。そろそろ始めましょう。今日は新しい香りに出会うことができる喜ばしき日よ!」
朗々と言う母上は時間をかけただけあって完璧な姿だった。繊細な刺繍が施されたドレスをまとい、髪は見事に編み込まれて、目も眩むような豪奢なネックレスをつけている。まるで光の化身だ。横に立つ父上がくすんで見えるほどだが、美しいのは悪いことじゃない。むしろ国の王妃がみすぼらしいと思われることくらい惨めな節制はない。
皆がテーブルにつくと沈黙がその場を満たし、吹き抜ける風が庭園の草花を揺らした。そして今日の主役として招かれた香草師が前に出て口を開く。
「わたしはマリスキュー。広義の薬草を取り扱う店を営んでいます。特殊な交配で生み出した香草で飲み物を試作し、お客様に提供しているうちに評判になりました。今ではそれを目当てに来る方も多いようです」
なめらかで美しい声だが、やけに淡々とした口調だった。どういう人物なのだろう?
マリスキューと名乗った若い香草師は、細身の体に上質なチュニックと緑色のロングガウンをまとっている。一見、物静かな学者肌の女というところだが、態度はひどく冷静で超然としていた。
この手の会合に招待された市井の技能者はおおむね必要以上に力む。楽師であれ詩人であれ錬金術師であれ、平常心ではいられず、なかには権力者に取り入ろうと露骨に媚びへつらう者も少なくない。ところがこのマリスキューという人物はどうだろう。王族の前なのに動揺の欠片もない。そつなく丁重に振る舞ってはいるが、本質的には権力者になんの興味もないのだろう。こういう種類の人間を私はたぶん初めて見た。
「うん、今日は評判のその飲み物をご馳走してくれるということだな。しかし、知る人ぞ知る中央街の人気者をこうして王城に呼び出すというのは邪道だろうか?」
ジーク兄様が軽く言葉を投げかけると、マリスキューは静かに微笑んだ。
「道が道であることに変わりはありません。正道か邪道か、それは各々が自由にお決めになればよろしいかと」
「なるほど」
「思うに、王族が歩けばその道は王道になるのではないでしょうか」
「はは、違いない」
ジーク兄様が感心したように笑う間も、マリスキューは淡々と作業を続けていた。その手つきは繊細だが、怖いくらい正確で乱れがない。
芝生の上に設置された持ち運び用の鉄製の火台――そこで火にかけられている不思議な形の鍋がやがて白い湯気を立て始める。マリスキューは持参した木箱を開けると、中に入っていた刻んだ乾燥植物を木匙ですくって鍋に入れた。その瞬間、鮮やかな香りが立ち、若草のような匂いの霧が辺りに漂う。なんだか無性に胸が掻き立てられた。
少し蒸らしたあと、マリスキューは鍋から上澄みだけを小さなカップに次々と手際よく注ぎ、それを侍女たちが銀製の盆に載せて私たちのテーブルへ運んでくる。
「まあ……」
私は思わず感嘆の声を漏らした。
カップの中には深い橙色の液体が入っている。美しくも、どこか懐かしくあたたかみのある色。幼い頃に夕暮れを眺めていたときの、あのなんとも言えない感情を思い出す。
「これは〈心灯の湯〉。上質なキネン草を配合して作った香草湯です。まずは一口お試しください」
マリスキューに勧められて皆が興味津々の顔でカップを持った。
「これは……」
「なんと清々しい香りでしょう。こんな飲み物は初めてだわ」
父上と母上も珍しく興奮し、頬がわずかに上気している。
立ちのぼる若葉のような匂いを軽く吸い込んだあと、私もカップにそっと唇をつけた。
その瞬間、凛とした風味が広がる。まるで青々とした若葉の森が出現したかのようだ。口当たりはなめらかで、控えめな砂糖の甘さが木漏れ日のように優しく溶け込んでいる。
恍惚として、私はほうっと大きく息を吐いた。
「美味しい……」
淡い甘味と鮮烈な緑の香りに刺激されたのだろうか。気づけば私は過ぎた日々のことを思い返している。なぜかはわからないが、次々と脳裏に浮かんできた。
無垢ゆえに幸せだった子供時代、兄様に毎日のように遊んでもらった楽しい少女時代、そして大勢の求婚者に恵まれた、嬉しいはずなのに案外そうでもない現在――。
短いようで長く、様々な人との出会いと別れがあった。帰郷した彼女たちは元気にしているだろうか。疎遠になった彼らは幸せだろうか。来た道が一瞬交わったあと、またそれぞれの目的地に向かって人は離れていく。みんなどこへ行ったのだろう? 消えた時間はどこへ行ったのだろう? 私にとって大切な人は今どこにいるのだろう?
とりとめもない思いに浸っているとマリスキューが口を開いた。
「キネン草は火山灰や微量の金属が含まれた土壌で育つ植物です。その強い香りは日頃の雑念を振り払い、押し込められた記憶の暗がりに光を届ける――そんなこともあるかもしれません。心の奥の本当の気持ちに火を灯すという意味で〈心灯の湯〉と名づけました」
マリスキューは淡々とした口調で語ったが、話の内容は意味深だった。そして、なぜか私に向かって語りかけている気がした。
いや、そんなはずはない。最近の私は少し考えすぎる傾向にある。実際マリスキューはこちらに顔を向けてはおらず、てきぱきと次の香草の用意をしていた。
本当の気持ちか……と思いながら私はため息をついて〈心灯の湯〉をもう一口飲んだ。




