1 王女
考えなくてはならないことなのに考える気にならなかったり、重要ではない相手なのに不思議とその人のことばかり思い出してしまったりと、心の手綱をうまく握れないことが時々ある。経験上、それは大きな変化の前ぶれだ。少なくとも私の場合は。
しかし今の私にどんな変化が?
わからない。だから何が起こり得るのか、まずは自らの身を振り返る。
私の名前はソフィア。年齢は十八歳。特技は美味しいものを美味しく食べることと、それについて考えながらも礼儀正しく振る舞えること。好きな食べ物は王家に仕える農民たちが丹精込めて育てた小麦のパン、と社交の場では答えているけれど、本当に好きなのはりんごを砂糖とはちみつで甘く煮たものだ。あとは柔らかいチーズ。他には――。
いや、食べ物の話はこの辺にしておこう。
このローラス王国の王、ジークハルト十三世には王妃との間に子供がふたりいる。長男は王太子ジークハルト十四世――敬愛する我が兄だ。そしてその妹が私こと王女ソフィアだった。
国の王女というものは往々にして政略結婚の駒でもある。それは歴史を学べばわかる。幼少期から嫁ぎ先が決まっている時代も昔はあったそうだが、幸いなことに戦争の影は既に彼方へと過ぎ去った。大陸最大の国家である今のローラス王国に比肩する勢力は事実上存在せず、ここ二百年の間は小競り合い程度の紛争すら起きていない。高い武力と経済力による平和が保たれているのだ。
時代の恩寵というべきなのだろう。それと父上のジークハルト十三世が家族を溺愛していることもあって、私は無理な結婚を強制されたりはしなかった。父上が選んだ十六人の候補者の中から、二十歳までにひとり選ぶようにと言われているだけ。その候補者というのも若くて有力な公爵、侯爵、伯爵、子爵ばかりだ。
彼らは豊富な資産を持つ権力者でありながら容姿も優れている、いわば生まれながらの勝利者たちと言っていい。そんな王国選りすぐりの男たちが私に気に入られようと、何かと用事を作っては訪ねてきてくれる。入れ替わり立ち替わり、様々な贈り物や恋文を持ってくるのだ。例えばこんなふうに。
「王女殿下は絹織物はお好みでしょうか? じつはうちの職工が新たな製法を編み出しまして、よろしければ見て頂きたいと……」
「私は先日、立派な鹿を仕留めたので、加工した角をお持ちしました! 部屋に飾って頂ければ光栄に存じます!」
「私は恋文を十通用意しましたぞ。どれも名高い方々に書かせたもので……こほん」
熱意の形は様々だが、いずれもお金がかかっていることは間違いない。爵位持ちの彼らにとっては、ほんの些細な出費にすぎないのだが。
なにせ各々の家には莫大な財産がある。親の親の親の代から受け継がれてきた、血脈のような富。それによって彼らはなんの苦労もせずに大抵のものを手に入れられるし、今後も末永く安泰に違いない。「持てる者」とはまさしく彼らのことなのだ。
でもなぜだろう。そんな彼らに私は人としての魅力をまるで感じることができずにいた。理由は自分でもわからない。ただ、彼らに地位とお金があって苦労知らずだからではない。そこは誤解しないでほしい。なぜなら王女である私だって立場は似たようなものだからだ。批判も非難もする気はないし、そもそも苦労なんてしなくてもいい方がいいに決まってはいる。頭ではそう理解しているのだが――。
どうしても心が動かないのは事実。好きとか嫌いではなく、ただ単に異性としてなんとも思えないのだ。一緒に人生を歩んでいく姿を思い浮かべられず、だから誰も選ぶ気になれない。本当に申し訳ないことだ。贅沢な悩みだと自分でも思う。
いや、ちょっと待ってほしい。ある人のことを言い忘れていた。
心が動く相手ならひとりだけいる。ただ、決して好感を抱いているわけではない。悪い意味で私の気持ちをかき乱す――ややもすると苛立たせる厄介者がいるのだ。
彼はレナス伯マクシミリアン。近くのレナス地方を治めている伯爵である。
年は二十二歳。猫のように柔らかそうな髪と彫りの深い容貌。離れて見ていると普通の貴族の青年だが、近寄ると妙に垂れ目で、お世辞にも精悍とは言いがたいのがわかる。いつもとぼけた笑みを浮かべ、取ってつけたような軽口ばかり叩くのだ。
そう、先日もこんな出来事があった。客人と会うための謁見室に、その日のマクシミリアンはなんの手土産も持たずに入ってきた。
「どうしたの、マクシミリアン伯爵? 今日はずいぶんと身軽そうね」
「でしょ? 王女殿下にはその方が楽しんでもらえる気がしまして」
マクシミリアンは場違いなほど屈託のない笑みを浮かべてそう言った。
「どういう意味?」
「殿下は贈り物に内心飽き飽きしています。あれは全部、親のお金で買ったものにすぎないと考えているからです。恋文もそうだ。巷で人気の詩人に代筆させたものだと見抜いている。となると、やはり自分の頭で当意即妙の言葉を紡ぐのが一番いい――なんてことをふと思いつきまして、こうして手ぶらで来ました」
「そう。あながち外れてはいないけど……ずいぶん自分に自信があるのね、マクシミリアン伯爵は。それであなたはご自分のどんな言葉を紡ぐの?」
「ではひとつ、ささやかな小話でも」
マクシミリアンは芝居がかった咳払いを挟んで話し始めた。
「じつは最近、他の求婚者たちと顔を突き合わせて長々と議論しました。議題は『王女殿下に本当にふさわしい男は誰なのか?』です」
「あなたたちも意外と暇なのね。それで結果は?」
「皆はこう言うんです。『王女殿下に最もふさわしいのは高貴で上品で礼儀正しく……そして殿下に決して逆らわない男だ』と」
マクシミリアンの言葉に私は心の底から興ざめした。
「そう……。つまり従順な男が理想だと?」
「ええ、皆はそう言っていました。でも、ぼくは違うと思うんです」
へえ、と思った私は自分でも気づかないうちに身を少し乗り出していた。
「聞きましょう」
するとマクシミリアンは満腹の猫のように目を細めて微笑む。そしてこれ以上ないほど誠実そうな顔つきで、私の目をまっすぐ見つめながらこう答えた。
「殿下にふさわしいのは従順な男ではありません。むしろ従順さの欠片もない男。殿下が苛立って散々文句を言いながらも最後にはなぜか許してしまう厄介者です」
「……なんですって?」
眉がひとりでにぴくぴくと動く。そんなふうに思われていたとは――。私はずいぶん甘く見られているらしい。失言を察したマクシミリアンは乾いた笑顔で、やってしまったと言いたげに固まっていたが、やがて揉み手をしながらおずおずと口を開く。
「あのう……調子に乗りすぎました?」
「ええ、とても」
「お褒めにあずかり恐縮です。それでは少しばかり反省会をしてきます……ひとりでね」
「褒めてはいないし、大いに反省することを推奨するわ。当分戻ってこなくて結構よ」
私の言葉にマクシミリアンは引きつった顔でうなずき、それでも舞踏会を思わせる優雅な足どりで謁見室を出ていったのだったが――。
あれ以来、彼は一度も宮廷に姿を見せていない。そんなに殊勝に反省するような男ではないのに、どうしたのだろう。さすがに気まずいのか、あるいは体調でも悪いのか。後者なら心配ではないこともないし、場合によっては見舞いの手紙を書いてもいい。正直、病に伏すような繊細な男には思えなかったが。
もちろん侍女長あたりに尋ねれば事情などすぐにわかる。しかし妙に意固地になっている自分がいて、それを許さないのだった。そもそもなぜ私が彼を心配しなくてはならないのか? あんな厄介者を――。
いや、こんなにもぐるぐると同じことを考え続けている時点で普段の私とはかけ離れている。本当にどうしてしまったのだろう? 訊けばすぐ済むことなのに訊かなかったり、考える必要がないのにいつまでも考えてしまったりと、心の手綱をうまく握れない。
そう、近頃の私はいつもそんな具合なのだった。
「……風邪でも引いてるのかしら、私」
ぽつりと呟いたそのとき、背後から唐突に足音が響いた。




