揺れる天秤
別に理貴の帰国を待ちわびていたわけではない。だけど、予告していた帰国の日、理貴からの連絡はそっけないものであった。
『ごめん、しばらく会うの難しい』
簡潔なメッセージにあかりはカチンとする。
あれだけアピールしてきたのに、急に手のひら返しをしてくる理貴に腹を立てていたのだ。
このままメッセージを送ったら暴言を吐いてしまう。顔を見れないやり取りなのだから余計に。 だからあかりは大人げないとは思ったが、既読スルーを決め込むことにしようと画面を閉じようとしたその時。
シュッという音を立てて、理貴からもう一つメッセージが届いた。
『俺が好きなのはあかりちゃんだけだから。お願いだから信じていて』
理貴の懇願のようなメッセージに疑問を感じなかったわけでは無いが、あかりはそのまま画面を消したのだった。
あとで散々後悔するということも知らずに。
※
――早見 七星、若手実業家と熱愛か!?――
センセーショナルな見出しと共にツーショットで写っているのは、あかりもよく知っている藤井理貴であった。
わざわざ職務中に呼び付けた雅人は、あかりにこのページを見せつけた後、手に持っていた雑誌を押し付ける。
「コイツは止めとけ」
忠告をして去っていく兄をあかりは呆然と見送って、ハッと気づいて慌てて仕事に戻る。
努めて平静に職務は遂行できたと思う。あかりの異変に気づいたのは早野だけだったから。
なんとか業務を終えたあかりは、早々に帰り支度をした。溜まっている仕事は山ほどあるが、今のテンションですると時間を食うばかりで進まないのは一目瞭然だ。
明日は明日で仕事が山のように来るはずだ。明日に回すツケは大きいが、背に腹は代えられない。
ノロノロと席を立ったあかりに早野が声をかけた。
「あかりー、明日は休みな」
「え? でも……」
書類が、と食い下がろうとするあかりに早野は眉間のシワを寄せて黙らせる。のほほんとしているようで早野も警察官の端くれだ。それだけで一気に泣く子も黙る面構えになるから不思議である。
「そんな青白い顔して仕事されたら困るのよ、ぼくが。最近警察官といえども労基が煩くてね。幸いにも急ぎの仕事はないし、代休も消化させないと怒られるのはぼくだしね」
あかりの反論を聞く前に早野はよし、決まり、と、サッサと予定を書き換える。そしてシッシと追い払うような仕草をしてあかりを追い出したのだ。
「あ、書類……」
あかりは大きくため息をついた。
処理するものが二日分溜まったらとんでもないことになるが、聞く耳をもたない早野を説得するのもまた困難だ。
明後日、家に帰れない覚悟をしながらあかりは家へと足を向けたのだった。
早野の気遣いは――仕事のことを考えると迷惑ではあったが――精神的にはありがたいものだった。
しなければいいのに、家についたあかりが真っ先にしたのは、スマートフォンで該当の記事を検索したことだったから。
――若い女性のインフルエンサー、早見七星の心を射止めたのは、若手イケメン実業家!――
――深夜の密会!美男美女のカップル誕生か!?――
――企業広告が繋いだ愛! 早見七星イケメン社長と熱愛!――
インパクト大な見出しと共に掲載されている写真は、荒い画像でもわかるくらいお似合いのカップルの姿だ。
相手の女性はモデル兼女優ということもあり高身長だ。百八十センチを超えている理貴と並んで写る姿を見ると、一枚の絵のように映える。警察官の規定身長ギリギリである百五十五センチしかないあかりと並ぶより自然である。
実際あかりと同じ感想を持った者は多かったのだろう。記事へのコメントも、並んだ二人の姿を称賛する声が多数だった。
「なーんだ……」
検索しまくったあかりから漏れたのは、失望にも似た感情だった。
今まで腑に落ちなかったのだ。よりどりみどりのはずの理貴がなぜあかりを選ぶのか。
「本命はこっちかぁ……」
好意があったのはウソではないだろう。理貴があかりに費やした時間とお金を考えると、冷やかしにしては手が込みすぎている。だが、どこかのタイミングでこの美女と出会い、いい雰囲気になったのだろう。
それならそうと早く教えてくれればよかったのに、とあかりが理貴を恨んでしまうのはそれだけ短期間に心を動かされていた証拠だ。
拮抗していると思っていた天秤は、いつの間にか理貴に少しだけ傾いていたようだ。そのことに気付いたのが、記事のおかげとは何とも皮肉ではあるけれど。
自分でもビックリするくらい落ちていたあかりを現実に引き戻したのは、いきなり鳴ったインターホンだった。
ピンポーン、ピンポーン!
驚いてすぐに立ち上がることができないあかりを呼びつけるように、何度もしつこく鳴る音に重い腰を上げて画面を覗いてみたら、予想外の人物が写っていた。
「颯さん……?」
『早く開けろ』
無意識に応答していたあかりに、颯は早口でまくしたてる。命令口調の颯にあかりは弾かれたように玄関の鍵を開けた。ドアをぶち破るのでは、というくらいの勢いで飛び込んで来た颯はおもむろにあかりを抱きしめる。
「はや……しご……」
あかりは颯の体を押し返しながら声を発する。混乱したあかりの舌はまともに回らない。今、颯が所属している刑事課は鬼のように忙しい。颯もある事件の調査で現場指揮を取りながら人手が足りないからと、自らも張り込みにも出張っていたはずだ。本来ならここにいる時間などないはずだ。
きちんと言葉にならないあかりの訴えは、正しく颯に伝わったようだ。
「十分だけといって時間をもらった。幸いにも今日は久保が余っていたからな」
警部補に昇格して係長になった颯と、巡査長とはいえ、昇任試験を一度も合格していない平警官の久保なら組み合わせとしてありえなくはない。ないが、わざわざ久保に命じてまであかりの家に来た颯の意図がわからない。
思い切り顔に書いていたのだろう。颯は眉間にシワを寄せると、先程よりも強くあかりを抱きしめた。
「オレ以外の男のことで泣くな」
「な……いてなんか……」
いない、と続けようとしたが、喉の奥がキュッとしまって続きを口にすることはできなかった。代わりに目から吹き出したものが、あかりの気持ちを代弁する。
颯は腕に力を込める。痛いくらいの力で颯の胸に押し付けられたあかりは息をするのもやっとだ。颯のスーツを汚してしまう。そう思うのに涙は止まらない。
「オレがいるだろうが」
ずるい、と呟いた言葉は颯の唇に吸い込まれた。彼のキスがしょっぱかったのはきっと自身の涙のせいとわかっていても切なかった。
颯は性急なキスをした後、悪いと言い残し訪れた時と同じように慌ただしく去っていった。
台風が去った後のように何も無い場所に残されたのは、虚しさと苦しさだけだった。
違う男に気持ちが傾いているのを承知で重ねられた颯の唇は、彼の目論見どおり再度あかりの心を揺さぶることに成功した。
理貴に少しだけ傾いていた天秤がゆっくりと平衡に、そして颯の方に倒れていったのだ。
颯のキスは、まだ彼に気持ちがあるとあかりに自覚させるのには充分で、これ以上ない行動であった。
中途半端な姿勢は結局皆を傷つけて終わる。わかっているのに、颯と理貴、二人の間で揺れ動くのもまた、あかりの正直な気持ちではあった。けれどどっちつかずの状態でフラフラと心が定まらない状態は、苦しくて堪らなかった。
颯が来なければ。
きっと、颯の思いも、理貴の気持ちも受け入れない決断を下せたのに。
誠実にも真摯にも向き合えていない自身の不誠実さに、誰もいなくなった部屋であかりは思う存分泣いたのだった。




