悩んだときは馴染みの稽古を
起きたら、目がパンパンに腫れていた。いつ寝たのかハッキリと覚えていない。辛うじてベッドに体を横たえていたが、目をつぶれば交互に二人のことが頭をよぎり、その度に胸を締め付けられ、布団を濡らしていたのだ。
いつの間にか気絶するようにして眠りに落ちたようだが、取れた睡眠は僅かだったようだ。
腫れぼったい目とカラカラに乾いた喉、そして泣きすぎてズキズキと痛む頭を押さえながら起きたあかりはテレビのスイッチを付けた。
『昨日、熱愛が報じられた藤井理貴社長が配信で熱愛を否定しました』
聞こえてきた声にギョッとしたあかりは思わず画面に釘付けになる。
『まずはお騒がせしておりますことをお詫び申し上げます。特に彼女のファンの皆様にはご心配をおかけし、申し訳ございません。彼女――早見七星さんは、ご存知の通り弊社の広告に出演して頂いております。弊社の認知度アップに貢献して頂いている素敵な女優さんで、代表取締役として大変感謝しております。ですが、私個人としてのお付き合いはございません』
いつもよりかっちりした髪型に、ダークのスーツは見知っている理貴とは違う雰囲気を醸し出していた。食い入るように画面を見つめているあかりの期待に答えるかのように、更にVTRは続く。
『私が撮影以外で早見さんとお会いしたのは、広告完成を祝して彼女と制作会社の方を会食に招待した日のみです。掲載された写真は会食当日のもので他に弊社の人間も側におりましたが、私の注意が至らなかったため二人きりのように見える距離で彼女と接してしまい、誤解を招く事態になりました。彼女の経歴に傷をつけてしまいましたことをお詫び申し上げます。改めて申し上げますが彼女と交際の事実はありませんし個人的な連絡先は存じ上げません。やり取りもしておりません』
そこで画面はスタジオに切り替わったの期に、あかりはテレビの電源を切る。
穏やかな口調ではあったが、理貴は怒っていた。
(なんでよ……)
理由はすぐに思いつくのに、あかりはそのことを認めたくなかった。認めてしまえば、颯に振れた天秤がまた、理貴の方に傾いてしまいそうになるから。
ふと携帯を見ると、通知を知らせるランプがついていた。
颯と幸人、そして。
(理貴……)
名前を見るだけで心が乱れてしまう。あかりは彼のメッセージだけ既読をつけることができなかった。
(このままじゃ、だめになる……)
ガシガシと頭を掻いたあかりは長く息を吐くと、おもむろに電話をかけはじめた。
「早野さん。あのですね……」
早野の了解を取った二時間後、あかりの姿は実家の隣に建っている剣道場にあったのだった。
※
早野に電話で外出許可をもらってあかりが訪ねた先は実家だった。正確には祖父が剣道を教えている道場である。
道場に一歩入るだけで、一気に空気が張り詰める。あかりは昔からしていたように、入口で「お願いします」と一礼し壁際に荷物を置いた。
道着には道場に立ち寄る前に実家で着替えていた。
まだ師範である祖父は不在だ。あかりは今のうちにと、固まっている手足を伸ばす。
念入りに屈伸をし、体が解れたと感じた頃、祖父が入って来て着座した。あかりは祖父と向かい合う形で正座になる。「黙想!」というピリリとした、昔から変わらない祖父の声と同時に目を閉じた。
体に染み付いた習慣というのは、中々忘れないようだ。黙想するだけでモヤモヤとしていた心が不思議と落ち着いてくるのだ。祖父の「開けっ!」の言葉と同時に目を開けたあかりは、正面へ、続いて祖父――いや師範へと座礼をする。
静かに頷いた師範を確認したあかりは立ち上がり、体に染み付いた動作をしていく。
素振りと足捌きを師範が良しと言うまで散々繰り返す。やっと良し、の声がかかると次は面をつけて師範相手に打ち込み稽古だ。
毎日稽古に明け暮れていた時と比べて竹刀を持つ機会がぐっと減ったあかりは、目に見えて衰えていた。そんな事情は師範は考慮しない。張りのある厳しい言葉がかけられる度に、あかりの頭から雑念が消えていき、純粋に目の前の人間の動きにだけ集中していく。同時に鈍っていた体が少しずつ勘を取り戻していった。
パァンッ!!
ようやく師範から一本取った頃には、ゆうに三時間が経過していた。
「そこまでっ!」
師範の言葉にあかりはハッと我に返る。集中で周りの雑音は全く耳に入らなかったのだ。
面を外し、汗を拭ったあかりは始まりの時と同じく黙想し、正面と師範に座礼をする。
「ありがとうございました」
師範から祖父の顔に戻った老人は、汗こそかいているがあかりと同じだけのメニューをこなしたとは思えないくらい平然としていた。
「最後だけだな、良かったのは。怠けすぎだ」
祖父の言葉にあかりは、ごめんなさい、と小声で詫びる。
確実に明日は筋肉痛になっていると予想がつくくらい、体中ギシギシいっている。だが、無我夢中で稽古をしたからか、気持ちはいくぶんスッキリしていた。祖父もそれを感じ取っていたのだろう。
「まぁ、来たときより表情はマシになったな」
と、頷く。そしてあかりに着替えが終わったら、近所の喫茶店に来るように命じたのだった。
「遅かったな」
先にシャワーを浴びて着替えを済ませた祖父の注意を受け流したあかりは、向かいに腰掛けて水を持ってきたマスターに「いつものでいいかい?」と聞かれる。頷きかけたあかりは一瞬考えた末、ナポリタンスパゲティとコーヒーを注文した。
目を見張り驚きを表したのは祖父だった。
あかりは四人の内孫の中でも冒険しないタイプである。というより、兄二人に弟の男兄弟に挟まれたあかりは、やいのやいのいう男共に挟まれて振り回されていた。
自己主張しないわけではないのだが、どこか自分の気持ちに鈍感であった。だから幼い頃から兄弟たちとこの店を訪れていたあかりは、男共がその時の気分で頼む品を変えている側で、常にオムライスとコーヒーをオーダーしていたのだ。
違いといえば、せいぜい小さい時はコーヒーがジュースであったり、夏はホットがアイスのコーヒーに変わるくらいの差である。
「珍しいこともあるもんだ」
祖父の言葉にあかりは苦笑した。
「言われたから」
「なんと?」
「「人に流されるまま意志を決めるのか?」って」
祖父はフッと笑う。
「付き合っていたのは、いい男だったようだな」
「うん…………っ!?」
祖父の言葉に頷いたあかりはパニックになる。颯に言われたセリフだと告げてないのに、何故わかるのか。
ちょうどマスターが運んできた生クリームたっぷりのフルーツサンドをかじりながら祖父は答える。
「理貴にならあかりはそんな面を見せるはずないからな」
「というと?」
鉄板に乗った熱々のスパゲティをフォークに巻き付けながらあかりは問い返す。
「理貴が年下だからな」
簡潔に返す祖父にあかりの疑問は解消されないままだ。消化不良のあかりに祖父は続きを口にした。
「兄貴二人につられて生意気ばかり言っていた幸人の代わりとばかりに、理貴の前ではカッコつけていたからな、あかりは」
口に入れていたスパゲティを吹き出さなかったのは奇跡的だった。とっさに飲み込んで盛大にむせる羽目にはなったあかりに、祖父は涼しい顔をしてコーヒーを飲んでいる。
「思い当たるだろう?」
ダメ押しの一言に、あかりは頷くしかない。誤魔化したところで祖父にはお見通しなのだ。祖父はアゴをしゃくってあかりに喋るように促す。
あかりの行動を見透かすような祖父に、ホッとする。
どうしようも無くなった時、あかりが頼るのは祖父だ。親友の結でも両親でも、兄弟の中で一番信用している次兄の拓人でもなく、祖父だった。
祖父からは自分で考えろ、と一旦言われるのがオチだ。しかし、長く警視庁で叩き上げの刑事として現場畑を勤め上げた祖父に聞いてもらうだけで、あかりは自身の考えを整理することができるのだ。
それに祖父のことだ。一旦突き放したフリをして、あかりが気づくきっかけになるようなことを口にしてくれる。
だからいつもあかりは祖父に悩みを吐露するのだった。
今日も祖父はいつものようにあかりの話を腕を組みながら黙って聞いていた。すべて話し終えたあかりに祖父は決まり文句のように「自分で考えなさい」と告げる。
「うん、わかっている」
答えが欲しいわけじゃないあかりは吐き出したことでスッキリしたようだ。いつもの祖父の言葉に素直に頷いた。祖父はコホンとわざとらしい咳払いをする。
「悩みは解決したのか?」
「まだ迷ってはいるけど、竹刀振ったし、話を聞いてもらったからかな。悩んではいるけど、苦しくはないよ」
「……そうか」
自分のアドバイスを必要としていない孫に、祖父はこころなしか寂しそうな顔を浮かべた。祖父のしょぼくれた姿にあかりは吹き出す。きっと前回帰省した時から力になりたくて堪らなかったのだろう。
内外合わせて孫の中で女はあかりだけだから、一番可愛がっているのは事実だからだ。その分、あかりにだけ厳しい面を見せることもあるのだが。
「あかりの根幹を理解してくれる人間を選びなさい」
結局、一言言いたかったのだろう。我慢できなかった様子で、唐突に祖父があかりに助言しようと口を開いた。祖父の声にあかりの姿勢は自然と伸びる。
「根幹って?」
「あかりが人生の中で大切にしているものだ。自身の中で誇れるもの、これだけは譲れないというものがあるだろう?」
誇りと聞いてすぐに頭に浮かんだのは、警察官である自分の姿だ。
悩んだし、苦しかった時もある。辞めたいと思ったことも。
だが、あかりは警察官の仕事が好きなのだ。
ポリ公と揶揄され、非常の時に頼られる割に給与も低いし、感謝されるよりも憎まれたり怒鳴られたりすることの方が圧倒的に多いのに。
それでも、関わりがあった人が前を向けるきっかけだったり、既のところで救われる命と心があったり。悪いことばかりじゃないことも、十年勤めていたあかりはもう知っていた。
少なくとも、結婚や出産を機に退職を考えないくらいには、警察官として奉職していることに誇りを持っているのだ。
自分ではない視点でアドバイスをくれた祖父に、あかりは頭を下げる。
「ありがとう。お祖父ちゃん」
あかりの言葉に照れた祖父はコーヒーを啜ろうとカップを持ち上げてしかめっ面をした。中身はとっくに空になっている。
「はいはいー」
様子を見ていたマスターがササッとお代わりのコーヒーを二人分注ぎ、ついでに「サービスだよ」といってあかりの前にパウンドケーキを置く。
「ワシのがない」
旧知の仲であるマスターは祖父をジロリと一瞥する。
「糖尿になるよ」
「ぐっ……」
その後の祖父は一切口を開かなかった。あかりににこやかな笑みを送ったマスターが仕事に戻ってからも、祖父は店を出るまでずっと仏頂面でミルクと砂糖をぶち込んだコーヒーを啜っていのだった。




