第17話
――扉が、開く音がした。
湯気の向こうに、見慣れた影が二つ。
ひとつは硬直した弟子。
もうひとつは、その手からずり落ちかけた、宙に浮く金属の箱──ドローンである。
「…………」
全く。何をしているんだ、この子は。
呆れた僕はアルテミアの唇から、そっと唇を離した。
僕が直接施す治療はこれで全てだ。
喉も気道も塞がっていない以上、あとは湯の中で勝手に回るだろう。ゆっくりと彼女の後頭部から手を離し、頭を湯枕へ預けさせる。
「――ココナ」
「あ」
「話は、あとだ……いや」
僕は嘆息した。
怒りは、実のところ、あまり湧いてこない。
――分かってはいたのだ。
「入るな」と言われた扉ほど、若い者には輝いて見える。
どんな時代であれ、それは変わらない。禁書庫に潜り込んで師匠に吊るされた馬鹿弟子を、僕は何人も知っている……というか、僕がその一人だった。
理性で好奇心を抑えられる年頃なら、そもそも師匠は要らない。
「……まあ、来てしまったものは仕方ない。そこで待っていなさい」
僕はアルテミアに向き直り、彼女の腹部へもう一度手をかざした。
――淡い光。
内側の陰影が、澄んでいく。
「……よし。肝臓の打撲、腎周りの出血、ともに止まった。内臓の治療は、終わりだ。あとは、このまま湯に浸けておけば、明日の朝には骨も繋がる」
僕は湯池の縁に控えていたミルに、顔を向けた。
「ミル。あとのサポートを頼む。三十分ごとに肩まで湯に沈めて、額の布を替えて――……ミル?」
「…………」
ミルは、正座したまま、微動だにしなかった。
目は完全に据わっている。頬は真っ赤で、口は半開きで、そして。
――鼻から、血が、滝のように出ていた。
「…………」
「…………うわ、エッロ」
「……ミル。鼻を、押さえなさい」
「……はっ! しっ、失礼しましたぁぁ! わ、わたし、なんてものを、なんてものを至近距離で拝んで……! 尊い……尊すぎて、圧が……! え、エッロ過ぎて!」
「……君もか」
二人目である。
そういえばこの使用人、初対面の朝も僕の顔で数秒固まっていたな……なるほど、そういう体質か。
「治療中だぞ。血を湯に落とすな」
「申し訳ございません! 止めます! 気合いで止めます!」
気合いで止まるものなのか、鼻血というのは。
地上の技術は、やはり進んでいる……いや、そんなわけないか。
ともあれ、彼女は仕事はできる。
鼻を押さえながらも、テキパキとアルテミアの頭を支え直す。
よろしい。これなら任せても大丈夫そうだ。
――さて。
残る問題は、扉の方だ。
僕は湯池を上がり、湯浴み着のまま、扉の前で固まっている弟子のもとへ歩いた。
ぽたぽたと、水滴を滴らせながら。
「ココナ」
「うわ、エッロ……あ、は、はい!」
「治療中の部屋を断りもなく開ける。しかも、配信を回しながらだ……覗きは、いけないだろう」
こつん、と。
軽くゲンコツを落とす。加減はした。痛くはないはずだ。
「――分かったか」
「…………」
……ん?
返事がない。
見下ろすと、ココナは真っ赤な顔で、僕を見上げたまま完全に停止していた。
目の焦点が合っていない。口が、ぱくぱくと動いている。鼻血がボタボタと落ちている。
「……あの、その、湯浴み着で、髪が濡れてて、あの、鎖骨が……じゃなくて、えっと、私は今、怒られていて、それで……あの……エロ過ぎて」
「聞いていないな?」
「………」
「…………エロ弟子が」
ゴン
もう一度、ゲンコツを落としておいた。
今度は割と強めに。多分、結構痛いはずだ。
「う、うぐぉ……」
「反省しなさい」
「もう、申し訳、ございません」
「全く……あとは」
勿論忘れていない。
もう一つ……いや、何万人と、説教をしなくてはならない子たちがいるのだ。
僕は視線を其方に向ける。
宙に浮かび、レンズを此方に向けている、配信用ドローンに。
「一体、どれだけの人数がこの状況を見ているのかはわからないが」
僕はドローンに歩み寄り、レンズを覗き込んだ。
向こうには、何百万だか何千万だかの目がある。夜更けに、他人の湯池を覗きに来た共犯者たちだ。時代が時代なら、死刑になっている可能性だってある。
元はといえば、僕の馬鹿弟子が発端。
だが、彼らもわかった上で配信を見ているのだ。ここは公平に叱らなくてはならない。
一言の注意で済ませるか。
髪をかき上げ、顎を伝う水滴を拭い、僕はレンズをコツンと小突いた。
「――君たちもだ。おいたは、いけないぞ?」
長い説教は趣味じゃない。
簡潔な、たった一言の説教。
それを告げた僕は最後にレンズへ向かって片目を瞑って見せる。
――直後。
ココナが握っていたスマホの画面──コメント欄が、これまでの人生で聞いたことのない音を立てて、鳴った。
◇
『エッッッッロ』
『は? 今の何? 今の何???』
『湯浴み着でウインク破壊力抜群すぎてエロ』
『恋しちゃったやつ沢山いるんじゃないの?』
『鎖骨 髪 濡 無理』
『「おいたはいけないぞ?」で心臓が止まった、成仏します』
『長年患っていたEDが治りました。ありがとうございます』
『↑報告するな』
『開発してほしい(何をとは言わない)』
『これ絶対グラビアの仕事くるだろ』
『抱かれたい男No.1、今年はもう決まりました』
『来年も再来年も向こう千年も決まりだが?』
『みんな聞いてくれ、司書様見ながらち◯こ弄ってたらゴツゴツしたもの見つけたぞ‼』
『それガンだよ』
『冷静な指摘で草』
『マジで病院行け』
『病院へGO』
『司書様のおかげで命拾いした男がここに』
『加護の対象範囲が広すぎる』
『……フゥ』
『早ぇよお──フゥ』
『もう駄目だここフゥ』
◇
「……賑やかだな」
文字の速度が尋常ではないが、まあ、盛り上がっているなら結構なことだ。
半分ほどは意味が分からなかったが、一つだけ言えるのは――どうやら誰かが、体の異変に気づいたらしいということだ。
何はともあれ、これで説教は仕舞いだ。
湯池の方へ戻ると、ミルが「あっ」と小さく声を上げた。
湯の中で、金色のまつ毛が震えている。
「――ん……」
ゆっくりと、瞼が持ち上がった。
焦点の定まらない碧の瞳が、天井の水晶を映し、湯気を映し、それから――僕を、映した。
「……貴方様……?」
「気がついたか……動くな。骨がまだ繋がっていない」
「私……確か、氷に……」
「君の負けだ。覚えているか」
「……はい」
彼女は、少し笑った。
そして、自分の唇に、そっと指先で触れた。
「……あの。ひとつ、伺っても」
「なんだ」
「……先ほど、夢を見ました。とても、あたたかい夢を」
「どんな夢だ?」
「貴方様、が……私に、キスを、してくださる夢です」
「それは夢じゃないぞ。さっき、治療のために口づけたからな。他意はない」
「あの、司書様。それは黙っておいたほうがいいのでは……」
「? 接吻の一つや二つで何を狼狽えている」
「あぁ、駄目だ。数千年生きている人の価値観にはついていけない」
ミルが額に手を当て、やれやれ、と頭を左右に振る。
何を子供のようなことを言っているのか。僕は接吻の一つや二つで動じるような尻の青い小僧ではない。それに、アルテミアは世界最強の探索者。これくらいで狼狽えるような者でもないだろう。
と、僕は考えていたのだが。
「貴方様」
「うん? なん──」
視界に映ったアルテミアは頬を朱に染め、これまでで一番乙女らしい表情で告げた。
「責任、取ってくださいね」
「……」
世界最強でも乙女心は持っているらしい。
僕はこの日、戦闘力と乙女力は反比例しないことを学んだ。




