第18話
湯上りの図書館はとても静かだった。
僕もアルテミアも、熱い湯に浸かったことで多少なりとも身体が火照っており、それを全力で冷ますためにソファに腰かけぐったりとしている。
互いに無言であるため、室内には静寂が漂う。
本来あるべき図書館の雰囲気を体現しているようにすら思え──いや、正確には、一箇所だけ賑やかだった。
「うっ、うぅ……ごめんなさぁい……皿が、終わりません……」
書架の谷の隅、水盆の前に膝をついたココナが山と積まれた食器を前に、しゃくり上げている。
手はといえば、止まらず動いている。えらいものだ。
手だけは反省しているらしい。
僕はそちらを見やり、告げる。
「治療中の部屋への無断侵入。配信の無許可継続……皿洗い一万枚。好奇心が抑えられないのはわかるが、罰がないとは言っていない。妥当な量だと思うが」
「そうです。そうですけど……」
「ちなみに、まだ二百枚だ。頑張りなさい」
「ぐぎぎぎぎ……」
絶望の声を背に、僕はテーブルへ戻った。
冷たい果実水の入った硝子杯を、向かいに座るアルテミアへ差し出す。骨は完全に繋がったが、念のため、今日一日は安静だ。
「飲みなさい。冷えている」
「……ありがとうございます。しかし」
彼女は杯を受け取りながら、興味深そうに湯池の方角を見やった。
「先ほどから、気になっていました。あの湯は、いったい何なのですか。あれほどの傷がたった数時間で……」
「ああ、あれか」
僕はひとくち、果実水を含んだ。
冷たい。地上の技術は、氷ひとつ取っても侮れない。
冷たさが喉を通過し胃に到達した感覚を抱いたところで、答えた。
「あの湯池には、もともと高濃度の魔力が溶けている。第五区の地下水脈が、古代の霊脈と繋がっているんだ。だがそれだけでは、ただの魔力風呂に過ぎない」
「では、何が」
「僕が浸かる。それだけで、湯全体に治癒の効力が乗る……そういう魔法だ」
「あなたが、湯そのものを、薬に変える……」
「さらに口づけで直接、治癒の術式を流し込んだ。これは体の内側からの処置だ。湯は外から、口づけは内から。両方を同時に行えば、治りは倍以上早くなる」
「……なるほど」
アルテミアは、感嘆したように息をついた。
「体の外と内、双方から――理に適っています。医術としても、完成されている……素晴らしい」
「まあ、そういう用途で使ったのは、久しぶりだったが」
――言ってから、思い出す。
本題は、そちらではなかった。
「アルテミア。僕は君に謝らなければならない」
「私にですか?」
「ああ」
僕は杯を置いた。
「まず、君の怪我に気づくのが遅かった。明らかに万全ではない状態だったことに気が付かなかった。これは僕の不徳の致すところだ。無理をさせてしまい、すまない」
「いえ、それは私の問題で──」
「それと、もうひとつ」
どちらかというと、こっちのほうが謝らなくてはならない。
僕は一瞬、皿洗いに勤しむココナを見やり、頭を下げた。
「――君のあられもない姿を、うちに弟子が晒してしまった。あれは、僕の監督不行き届きだ。すまなかった」
アルテミアは、しばらく黙っていた。
激怒されるだろうか……と思っていると、ふっと笑って、首を振った。
「怪我については、私自身の未熟が招いたこと。誰のせいでもありません……そして、姿を見られたことについても」
彼女は、まっすぐ僕を見た。
「私の身体は完璧です。弛まぬ鍛錬で鍛え上げただけではなく、女としての魅力も欠かさぬよう日々努力しております。見られて恥じる部分など、一つもありませんから」
「物凄い自信だな」
「きっと、いえ確実に、司書様もご満足いただける……いえ、一度抱いたら忘れられないほどかと」
「抱かないから」
凄まじい自信と自負だった。
ま、まぁ、とにかく許してもらえて良かった。
と――このまま、綺麗に話が終わるかと思ったのだが。
「ですが」
アルテミアの唇が、すっと弧を描いた。
「――対価は、いただきましょう」
「……対価?」
「入浴の一部始終を世界中に配信された。湯浴み着を身に着けていたとはいえ、これは立派な公然の露出です。並の令嬢なら、家名にかけて訴えるところ」
「……まさか」
僕は、身構えた。
まさか、また――
「結婚――」
「違います」
「では」
「――私を、弟子にしてください」
あ……そっちか。
「またか」
最近はどうも、弟子志願者が多い。
いや、素質的に弟子にせざるを得なかったパターンもあるが……この短期間に、三人目か。
僕は姿勢を正し、彼女を見据えた。
「なぜ、弟子になりたいんだ? どうして魔法を使いたい」
ココナにも尋ねた問い。
それに、アルテミアは即答した。
「――あなたを倒すために」
迷いのない目だった。
剣を構える時と、同じ目だ。
「氷漬けにされて、初めて理解しました。武術だけでは、スキルだけではあなたには永遠に届かない……ならば、あなたの武器そのものを、この手に得るしかない」
「……なるほど」
物騒な動機だ。だが――嫌いではない。
貰った才ではなく、負けた悔しさから伸びようとする心根。
敗北から悟り、見つけたのだろう。唯一の勝ち筋を。
的のある者は、伸びる。二千年、それは変わらない真理だ。
「――いいだろう」
「!」
「素質は、悪くない。自分の型を捨てた判断力も、この身に届く三十センチまで詰めた執念も……だが、試験は受けてもらう。合格した暁には、正式に弟子として扱おう」
「感謝いたします」
彼女は椅子から立ち上がり、こちらへ一歩、詰め寄った。
「では――その証に、もう一度」
つ、と顎が持ち上がる。目が閉じかける。
「駄目だ」
僕は彼女の額に、掌をひとつ置いて押し留めた。
「弟子になるのは結婚とは違う。それに、さっきの湯池での口づけはあくまでも治療行為。それ以外の意味はないんだ」
「……一回だけ」
「駄目だ。一回やったら歯止めが利かなくなるだろう」
軽口を叩きながら、僕はその額に置いた手を、そのまま少しだけ滑らせた。
「……貴方様?」
「少し診る」
僕は彼女の魔力の流れを、指先から辿った。
実のところ、氷結の最中から気になっていたことがある。
現代人にはないはずの……膨大な魔力量。あの回復の速さ。骨の繋がりの異様な早さは、湯池の効力だけでは説明がつかない。
何か秘密があるはずだ。
アルテミアの肉体には、常人とは異なる、何かが……。
「アルテミア……ひとつ、聞かせてくれ」
「なんでしょう」
「君の家系は?」
「? 家系ですか? 祖母から代々、剣を継いできた家系ですが……それが、何か」
「……いや」
僕は手を離した。
顔には出さなかったつもりだが、内心では――かなりの驚きが、渦を巻いていた。
アルテミア。
彼女は──人間ではない。
世界最強の探索者の、驚愕の事実。
しかも本人の様子から察するに、彼女はこのことを知らない。
自分を正真正銘の人間だと思っている。
……秘密にしよう。
僕だけが知る、トップシークレット。
今はまだ教えない。伝えない。彼女を人間として迎え入れよう。
口を閉ざし、新たな秘密を仕舞った心の戸棚に鍵をかけ、僕は決定した。
あぁ、蛇足にはなるが……アルテミアの弟子入り試験の記録は二秒。
ココナはその晩、泣きながら僕と一緒に眠った。




