深淵はそばに……
「ねぇ、聞いたあの噂」
「えぇ、何それ。私知らないよ〜」
「禍々さんって言うんだけどね。黒い飲み物を売ってるんだって」
「それで、それで」
「禍々さんの飲み物を飲むと心が満たされるんだけど……おねだりをすると禍々さんが心を持ち去って、廃人になるんだ〜」
「こっわ」
「ほんとにあるとは思えないけど、最近廃人になる人が増えてるみたいだし……」
「怖がらせないでよ。噂なんて噓でしょ」
「どうだろね」
チャイムが鳴る。休み時間は、じきに終わるようだ。
「授業に遅れちゃう」
「あぁ、待ってよ〜」
◆◆◆
亜貴が昏睡状態で入院してから一夜が経った。今でも、あの出来事が絵空事のように思える。しかし、亜貴の机に誰も座らないまま授業が始まった事がすべてを物語っている。あの亜貴が学校を休むことなんて滅多にないからな。
それに京介まで休んでいる。親友があんな目にあったら、休むくらい心が傷つくだろう。
「それでは席替えをするぞ」
これまで、亜貴のことで頭がいっぱいだったから、すっかり忘れていた。今も亜貴のことで気が気ではないのだがな。昨日、亜貴の騒動が一段落したはずなのに次は昏睡状態で入院とかどうしてくれるんだ。
頭の中を亜貴の事がぐるぐる回っている間に席がテレビに表示されている。俺はまだ心の準備が出来ていないというのに……
表示された席を見ると、俺はこのままのようだ。そうなると周りが誰になるかが気になる。
テレビを見て確認しようとすると、周りの机が一斉に音を立て始める。席の移動が始まった。席が移動し終わったら周りが誰かなんて一目瞭然だ。それまで待つとしよう。でも、席が変わらないのってこんなに楽なんだな。なんだか、働きアリを上から見下ろすような変な気分だ。
「ねぇ、席変わらないなら亜貴の机運んでよ」
「あぁ、ごめん。すぐに動かすよ」
亜貴の新しい場所をテレビで見て、すぐに動かす。亜貴の席は俺から結構離れてしまった。
机を動かし終えて自分の机に戻ると席替えは終わっていた。相変わらず京介の席も遠いままだ。この席で、俺が話せる人は周りにいないだろう。この席替えは萎えるという一言に尽きる。
「ねぇねぇ、健司君、これからよろしくね」
「あぁ…よろしく」
隣の席になったのは、妙に男子人気の高い八十津日さんだ。俺は彗一筋だから興味は無いんだけど――甘い香りが漂ってくる。
「突然で、悪いんだけどさ。昼休みに屋上へ来てほしんだ。今日は1人でしょ」
「あぁ、いいけど」
「約束だよ」
津日は嬉しそうにしてる。なのに瞳の奥は笑ってない。それに「今日は1人」っていうのが引っかかる。一旦、置いとくとしよう。
それより、周りの目に驚きや嫉妬が混ざっていた。この日を境に、俺のスクールライフが何かの渦に引き込まれていきそう。屋上で何事もなければよいが……
◆◆◆
昼休みの鐘が鳴ってしまった。
「それじゃあ、屋上で待ってるから」
「後で行く」
今日も俺は授業に集中出来なかった。津日に何をされるか怯えていたから。
亜貴の件は、無意識のうちに起こったことだからいいとして――これは作為的なものを感じる。
屋上で何が起きるか、考える必要は無かった。絶対、無駄なエネルギーを消費していただろう。
「おいおい、早く行けよ」
「津日様が待ってるんだぞ」
正直、このままバックれてしまいたい。
だが、皆に流され、押されるように屋上へと送られる。どうやら屋上に行く運命らしい。
俺を押していくのは、全員男子だ。そこに女子は1人もいない。
八十津日のファンクラブ噂は聞いていた。この状況を見れば確実だろう。ファンクラブというよりは、宗教に近しい熱烈なものだけど――
八十津日は、確かにいい匂いがする。でも、俺は香水やフェロモンみたいなのが苦手なんだ。
彗の匂いは好きなんだけど……
色々考えていたら、屋上前の扉に着いた。
「皆、ご苦労さま。さ、健司くんだけ来て」
「あ、あぁ……」
後ろに付いてきた男子も屋上へと踏み入れようとする。だが――
「皆は入っちゃ駄目。私は2人で話したいの。だから、ごめん。このお礼は後でするから、じゃあね」
その場に津日の声が反響すると、男子の波が引いていった。
そのまま、扉は閉められて屋上に2人きり――
扉が閉まったのを確認して、津日が俺に顔を近づける。
クンクン
「うわっ、八十さん。どうかしたの」
「急にごめんね。今、君からあの娘の匂いがして」
「……誰の事だ」
「ごめんなさい。ほんとになんでもないの。だから、気にしないでね、ね!」
「あぁ、誰にも話さないから安心して」
こう言っておかないと、津日のファンクラブの連中に何されるか分かったもんじゃない。
その言葉を聞いて、津日は胸をなで下ろしていた。よほど、知られたくないのだろう。
「話があるって呼び出したり、急に顔近づけてきたり……、八十さんは何がしたいんだ」
正面にある顔は急に紅くなっていく。それに人差し指をツンツンさせてる。
俺に気でもあるんだろうか。無い、無い……それは絶対無い。だって、俺は陰キャだし。
「健司くんに言いたい事があってさ……」
「そのぉ……」
俺は固唾を飲む。
「私、貴男のことが好きでした。つ……付き合って、ください」
予想外の問いに俺は驚いた。一生の中で、好かれることなんて無いと思ってたけど――それは唐突に訪れる。
だが、俺には決めた人が居る。
「八十さんの気持ちは嬉しいよ。でもね、俺には心に決めた人が居るんだ。だから、ごめん」
「普通なら、これでイチコロなんだけど――そっか、健司くんはもう……」
「付き合えなくて、ごめん」
俯き気味の津日は、その言葉に救われたように俺を凝視する。
「今、付き合うのは無理って言ったよね!」
「それに近しい事は言ったけど」
「じゃあ、友達になってくれる」
友達。それを言われたら俺は――
「いいよ」
断れない。
「やった〜」
「ありがとう。じゃあ、教室戻ろうか」
丁度、鐘が鳴る。
まだ俺、昼飯食べてないんだけど――
でも、鐘が鳴ったからには仕方がない。
屋上を離れようとした時、俺の頬を冷たいものが流れていく。
「さ、行こっ」
「あ、あぁ――」
もう、言葉に力が入らない。俺は頭が働かないまま、津日に付いていく。
気づくと、津日に恋人繋ぎされて階段を下りていた。
「あの、これは何」
「止めたって良いんです。でも、私の告白が受け入れられなかったって、思われたら――貴男に何をするか分かりません。私は貴男を守ってるんです」
これは、告白を受け入れようと、断ろうと俺は恋人のレッテルを貼られていたということ。全て津日の思い通りだ……
「こうして、あの娘の匂いが永遠に嗅げる」
隣で、八十さんが変なことを言っている。俺はそれを聞き流す。
もう、学校嫌いになりそう。
それに俺、どうなっちゃうんだ。




