85話:二択の檻――神子の呪いと、消えた聖獣
完璧なハッピーエンドの、その先にあるはずの朝。
私は、シルの柔らかな毛並みに顔を埋め、窓から差し込む穏やかな陽光で目を覚ます――そのはずだった。
「……っ、……寒い……?」
意識が浮上した瞬間、肌を刺したのは春の微風ではなく、魂を凍りつかせるような、どろりとした漆黒の魔力の奔流だった。
目を開けると、そこは王城の寝室ではなかった。上下左右の概念が消失し、無数のノイズが走るデジタルな霧に包まれた、静止した虚無の空間。
「……シル? アルベルト……? どこにいますの……!?」
隣にいたはずのシルの温もりも、床で丸まっていた助手の寝息も、どこにもない。
焦って枕元の『シル・フォン』を掴み取ったが、画面には虹色のノイズが走り、真っ赤な文字で不気味な警告が明滅していた。
『Critical System Error:Soul Partitioning Detected(致命的なシステムエラー:魂の分断を検知)』
『Access Denied:The Story has been Corrupted(アクセス拒否:物語は破損しました)』
「……そんな、……嘘よ。……私は完璧に、デバッグを終えたはず……!」
「……おはよう、結衣。……いい夢は見られたかな?」
背後から、心臓を直接掴まれるような、甘く冷徹な声が響いた。
振り返ると、そこには白銀の髪を虚空になびかせ、退廃的な美しさを湛えた神子――ヴォイドが、虚空に座して私を見下ろしていた。彼の背後には、石像のように固まり、砂となって崩れ落ちていくゼノス様やアリア様の幻影が、無限にリフレインされている。
「ヴォイド……様。……どうして、こんな……。……私の世界を、どうして壊すのですか!」
「壊してはいないよ。……ただ、君が執着しているその『背景データ』たちを、本来の価値(無)に戻しただけだ。……さあ、結衣。……君がその偽物の物語に飽きるのを待っていたんだ。……私からの、最後の『選択肢』を提示しよう」
ヴォイドが音もなく私の目の前に降り立ち、冷たい、けれど熱い熱量を帯びた指先で私の顎を掬い上げた。
「……選んで。
・私を愛して、二人きりの永遠を過ごすか。
・君が作った、不確かな『夢』に殉じるか。」
ヴォイドの瞳にある銀河が、私を飲み込もうと激しく渦巻く。
彼を選べば、私は前世で愛した最推しと、永遠に安全な場所で暮らせるだろう。……だが、それは私がこの一年間で築き上げた、アリアちゃんやシル、ゼノス様たちとの「生きた絆」を、すべて『なかったこと』にすることと同義だった。
(……ギャーー!! ……ここで、ここで乙女ゲー最大の【究極の二択】が来るなんて! ……でも、……答えなんて、……最初から決まっていますわ!!)
「…………お断り、……いたしますわ!」
私は、ヴォイドの手を思い切り振り払った。
「……貴方がどれほど私の前世を知っていようと、……貴方がどれほど美しかろうと! ……私は、私の愛した『推したち』が、泥臭く笑い、……明日を夢見る、あの不器用な世界を選ぶんですのよ!!」
私の拒絶の言葉が響いた瞬間、ヴォイドの慈悲深かった瞳から、一滴の光も残さず感情が剥がれ落ちた。
銀河を湛えた瞳は、今や冷徹な『管理者』の冷たい発光体へと変貌し、周囲の空間がガラスが割れるような不快な音を立てて砕け始める。
「……そうか。……なら、君がその『夢』とやらの不条理に打ちのめされ、喉を枯らして私を乞うまで、何度でもデータを上書きしてあげよう」
ヴォイドが、無造作に指を鳴らした。
その刹那、虚無の彼方から「キュアァァァァァッ!!」という、裂けるような断末魔が響き渡った。
「……シル!? シル、どこにいますの!!」
闇の向こう側で、シルの黄金の魔力が、目に見える『デジタルなノイズ』となって分解されていく。ヴォイドの手のひらに、小さな黄金の光球――シルの本質が吸い込まれ、そのまま握り潰された。
「……君を甘やかすイレギュラー(聖獣)は、この物語から一時的に『BAN(削除)』したよ。……彼がいる限り、君は絶望を知ることができないからね」
「……っ、……嫌……! 返して、私のシルを返して……っ!!」
私が叫びながら駆け寄ろうとした瞬間、足元の空間がドロリとした泥のように溶け、私の身体を深淵へと引き摺り込んだ。
視界が反転し、強烈な吐き気が脳髄を貫く。
――『Reloading the Last Save Point...(前回のセーブポイントを再読み込み中)』
――『Status Check: Error... Error... All Bonds Reset.(ステータス確認:エラー。すべての絆をリセット)』
ーーー???
脳を直接かき乱されるような電子音と共に、私の意識は真っ逆さまに暗闇へと転落した。
視界が戻った瞬間、私は激しい寒気と、自分の身体に対する猛烈な「違和感」に襲われ、その場に手をついた。
(……え? ……何、これ。……身体が、……重い……?)
そこは、カビ臭い湿り気を帯びた石造りの地下室だった。
私は自分の手を見た。……震えるその手は、白磁のように滑らかで、魔導回路を刻み続けたリリアーヌの指先ではなかった。少し指が短く、爪には見覚えのある、前世で塗った剥げかけのピンクのネイル。
纏っているのは豪華なドレスではなく、あの日、深夜のコンビニへ行くために羽織った、毛玉のついたグレーのパーカーとスウェット。
「……嘘、……でしょ。……私の、……元の姿(結衣)……!?」
鏡もない暗闇だが、触れる肌の質感、重力、そして何より『魔力』という感覚が一切消え失せた喪失感。ヴォイドは私の魂だけでなく、私の肉体そのものを「リリアーヌ」という役割から強制的にデタッチ(分離)し、ただの無力な『プレイヤー(結衣)』としてこの世界に具現化させたのだ。
混乱する私の耳に、ガチャン、と重い鉄格子の開く音が響いた。
「…………。……お嬢様。……もう、大丈夫ですよ」
闇の向こうから、聞き慣れた、けれどこれまでに一度も聞いたことのないほど「冷たく、濁った」声が響いた。
ゆっくりと歩み寄ってきたのは、シオンだった。
だが、彼の腕の中には――怯え、瞳を潤ませて震えている「リリアーヌ・アステリア」の肉体が抱えられていた。その瞳には、私(結衣)が共有していた知性も、不敵な傲慢さも、一年間の記憶も、何一つ宿っていない。
「シ、シオン……!? 私はここよ! 私はこっちにいるわ!!」
私は叫んだ。必死に声を張り上げ、彼に駆け寄ろうとした。
だが、シオンの瞳は、私のことなど「そこに存在しない空気」であるかのように透過し、ただ腕の中にある『本物のリリアーヌ』だけを、狂おしいほどの愛着を込めて見つめていた。
「……お嬢様の精神を蝕んでいた『不浄な憑依者』は、私の影で追い出しました。……これからは、この地下室で、私だけが本来の貴女を愛でて差し上げましょう」
「……あ、……あぁ、……シオン……。……怖い、……何が起きているの……?」
腕の中のリリアーヌが、シオンの胸に顔を埋めて泣きじゃくる。
彼女は、結衣と一緒にいた「幸せな一年の記憶」を失っているのだ。ただ、豹変したシオンの執着に怯え、本能的に彼に縋っている。
(……ギャーー!! ……シオン! 違うの、私はこっち! ……リリアーヌ様も、思い出して! ……ヴォイド、貴方……貴方、私にこれを見せるために、……私を『異物』として放り出したのね!!)
私の脳内に、ヴォイドの冷徹な、悦びに満ちた囁きが響き渡った。
『……言っただろう、結衣。……君以外のすべては「背景データ」だ。……君が愛した男たちが、君が必死に救った「お人形」を壊し、君自身を「排除すべきゴミ」として扱う様を……一人の「観測者」として楽しむといい。……君が絶望し、私という唯一の救いを求めるまでね』
シオンの影が、地下室を飲み込むように膨れ上がる。
シオンは腕の中のリリアーヌを抱き直し、彼女を安心させるように、その頬に深く、どろりとした接吻を落とした。そして、私の足元にまで伸びてきた影の触手が、私を「汚物」でも払うかのように弾き飛ばした。
「…………っ、……あ、が……っ!」
私は、冷たい石畳の上で転がり、ただ泣き叫ぶことしかできなかった。
魔力もなく、権限もなく、愛する人たちからも「認識」されない。
ただの『結衣』として放り出され、自分が救ったはずの人々が、自分を「敵」として排除し始める、最悪のバッドエンドの第一幕。
「……助けて。……シル、……アルベルト、……誰でもいいから……助けて……っ!!」
私の悲鳴は、厚い石壁に跳ね返り、空虚に消えていった。




