83話:影の図書館ともふもふの昼寝――安らぎの記憶
アステリア特別区の地下深く、シオンの影が物理的な領域として固定されたその場所には、地上の喧騒が一切届かない「無音の聖域」が存在していた。
広大な空間を埋め尽くすのは、漆黒の結晶で作られた書架の列。そこには紙の本ではなく、私がこれまでに書き上げた数万枚の設計図、魔導理論のログ、そして――。
「……シオン。……これ、私の日々の食事のメニューから、睡眠時間、果ては独り言(デバッグ中の呟き)までデータ化(記録)してありますわね?」
私は、空中に浮かび上がる青白いパケットの束を指先ではじきながら、隣で恭しく控える執事に呆れ混じりの視線を向けた。
シオンが構築した『常闇の図書館』。ここは特別区の頭脳であると同時に、シオンという一人の男による「リリアーヌ・アステリア」という存在の、全方位的なバックアップ・センターでもあった。
「……お嬢様。……貴女の瞬き一つ、吐息一つ、……あるいはその美しい思考の断片一つであっても、この世界の塵として消え去ることは許されません。……貴女のすべてを影の底に刻み込み、永遠に保存し続けること……。……それこそが、私の魂の唯一の安らぎなのですから」
シオンは、私の影を慈しむように一歩踏み出し、私の肩にその細長い指先をそっと添えた。
彼の瞳は、かつての暗殺者としての冷徹さを完全に捨て去り、代わりにお嬢様という「神」を、一秒の欠落もなく記録し、独占したいという、狂おしいほどに純粋な、そして重すぎる愛に染まっていた。
(……ギャーー!! ……シオンの過保護が、ついに『個人情報の全件保存』の域に達しているわ! ……でも、……この徹底した管理のおかげで、私のスローライフが完璧なセキュリティで守られているのも事実……。……有能すぎる執事を持つのも、考えものですわね)
「……宜しくてよ。……でも、私の恥ずかしい書き損じ(バグ)のログだけは、後でこっそり削除しておいてくださるかしら?」
「……御意。……お嬢様の『完璧』に泥を塗るゴミは、私の影がすべて咀嚼して差し上げましょう。……さて、お嬢様。……あちらの『メンテナンス・ルーム』で、少々騒がしい雑音が混じっているようです」
シオンに促され、図書館の最奥、唯一地上からの陽光が魔導ダクトを通じて差し込む特設工房へと足を運んだ。
そこは、私がアルベルトに与えた「聖域」であり、特別区の全デバイスの最終調整を行う、泥臭い開発の現場だった。
重厚な扉を開けると、そこには、開発者にとってこれ以上ないほど「平和な光景」が広がっていた。
重厚な防音扉を開けた先に広がっていたのは、魔導回路のハンダ付けの匂いと、微かな埃、そして何よりも「平穏」という名の暖かな空気だった。
部屋の中央、最新の魔導演算機が低く駆動音を鳴らす傍らで、私の有能な助手(奴隷)であるアルベルトが、あろうことか聖獣シルの真っ白で巨大な腹部を枕にして、泥のように眠りこけていた。
「……あら。……アルベルト、また徹夜作業をなさったのね。……私の設計した『次世代型・通信中継器』のデバッグ、そんなに骨が折れましたかしら?」
私は扇子で口元を隠し、その無防備な寝顔を見下ろした。
アルベルトの眼鏡は少しずり落ち、手元には書きかけの修正コードが散乱している。……かつて教会に怯え、震えていた魔導技師の少年は、今や私の無茶振りに文句を垂れつつも、この特別区の頭脳を支える立派な「開発者」へと成長していた。
「キュ、キュアァ……」
私が近づくと、シルが片目だけを薄っすらと開け、私のドレスの裾を鼻先でツンツンと突いた。
シルは「この人間、頑張ってたから寝かせてあげて」とでも言いたげに、自分のふかふかな毛並みをアルベルトに被せて、温もりを分け与えている。シルの黄金の瞳には、前世の結衣が愛したあの「献身的な聖獣」としての穏やかな慈愛が満ち溢れていた。
(……はぁぁ……。……尊い。……これよ。……私が欲しかったのは、……私がこの世界をデバッグしてまで手に入れたかったのは、……こんな風に、誰もが安心して、好きなこと(開発)に没頭して、……泥のように眠れる、……そんな何気ない昼下がりなのよ)
私は、シオンに目配せをして、影の布で作った最高級の毛布を二人にそっと掛けさせた。
シオンは不快そうにアルベルトを一瞥したが、私が見守っていることを察し、音もなく影の毛布を広げてみせた。
「…………。……お嬢様。……この平穏な記憶も、私の影のアーカイブ(書庫)に、一生モノの『読み取り専用データ(リードオンリー)』として保存いたしました。……たとえ明日、世界が反転しようとも、この温もりだけは、私が影の底で守り抜いてみせましょう」
シオンが私の背後に立ち、その細長い指先を私の髪に絡ませた。
彼の言葉は、まるで何らかの「予兆」を予見しているかのようにも聞こえたが、今の私には、それが執事特有の「重すぎる愛の表現」にしか聞こえなかった。
(……そうね、シオン。……記録しておいて。……私が、私のアリアちゃんやシル、そしてこの頼もしい仲間たちと、……笑い合って過ごしたこの『完璧な時間』を。……これこそが、私の人生の最高傑作ですわ!)
夕暮れの光が、魔導ダクトを抜けて工房をオレンジ色に染め上げる。
目を覚ましたアルベルトが、寝ぼけ眼で「あ、……師匠……。……す、すみません、……つい寝落ちを……」と慌てて起き上がり、シルがそれを楽しそうに鼻先で押し倒す。
「……宜しくてよ、アルベルト。……お茶を淹れなさい。……今日は、とびきり贅沢な『開発会議』をしましょうか」
「……は、ハイッ! ……師匠、……ずっと、こうして開発(仕事)をしていられたら、最高ですね」
アルベルトが、照れくさそうに笑いながら、私に温かい紅茶を差し出す。
不穏なノイズも、ヴォイドの囁きも、……そんなものは、この温かな紅茶の湯気の向こう側へ、永遠に消え去ってしまった。
リリアーヌ(結衣)は、自分の作り上げた「箱庭」の完璧さを確信していた。
この『安らぎの記憶』が、いつか自分を救う鍵になることなど、今はまだ、夢にも思わずに。




