第79話:豪華客船のティータイム――潮風と、揺らぐことのない独占欲
地平線まで続く、どこまでも蒼く、透き通った『忘却の海』。
かつては教会の古い呪いによって「魔の海域」と呼ばれていたこの場所も、今や私の開発した『全天候型・海流安定魔導装置』と、ゼノス閣下の氷の魔力を応用した推進器によって、世界で最も贅沢な「海上ドッグラン」へと変貌を遂げていた。
超巨大豪華客船『アステリア・マギ・クイーン』号。
その最上階、三六〇度のパノラマが楽しめる展望ティーラウンジで、私はハシム様から贈られた極薄のシルクドレスを纏い、優雅にカップを傾けていた。
「……ふふ。……素晴らしいわ。……船体の揺れを九九%カットした私の設計、完璧ですわね。……ティーカップの紅茶が、波一つ立てずに私の唇を待っていますわ」
私が扇子をパタつかせながら悦に浸っていると、隣のソファでシルの大きな尻尾を抱き枕にしていたアリア様が、幸せそうに目を細めた。
「リリアーヌ様! ……海の上でいただくスコーンが、こんなに美味しいなんて知りませんでしたわ。……外はサクサク、中はしっとり……。……お空と海が一つになったみたいで、私、ずっとここにいたいです!」
アリア様は、私が魔導冷蔵庫で冷やしておいた特製クロテッドクリームをたっぷりと乗せ、頬をリスのように膨らませていた。
聖域での激闘を終え、彼女の瞳からは「世界の理」という名の重荷が消え失せ、今はただ、私の作ったお菓子を心待ちにする、ただ一人の愛らしい少女としての輝きを取り戻している。
(……ああ。……これよ! ……この『推しがバカンスでリラックスしている姿』! ……前世のゲームなら、限定イベントのガチャでしか手に入らない、最高レアリティのスチルだわ! ……それを独占できるなんて、デバッガー冥利に尽きるわね!)
「キュ、キュアァ~……」
シルもまた、潮風が心地よいのか、私の足元でゴロンと横たわり、自慢の白銀の鬣を風になびかせている。……シルの毛並みは、洋上の強い陽光を浴びて、ダイヤモンドの粉を振り撒いたように美しく発光していた。
「……シル、あまり甘えすぎてはお嬢様のドレスを汚しますよ。……お嬢様のドレスを整えるのは、私の唯一の特権なのですから」
シオンが影の中から、冷えたシャンパンのボトルを抱えて現れた。
彼の瞳は、船上という「逃げ場のない閉鎖空間」において、より一層深い、静かな狂気を帯びていた。シオンは私の背後に回り込み、私の髪を一房掬い上げては、潮風で乱れていないか、丹念にその指先で整えていく。
「…………。……お嬢様。……この船内の全個室、および通路の影。……すべて私の神経と同期させました。……ネズミ一匹、お嬢様の視界に入ることは許しません。……もちろん、……招かれざる『冬の来客』であっても、ですね」
シオンが視線を向けた先。
ラウンジの入り口から、周囲の空気を物理的に凍りつかせるほどの圧倒的な威圧感を放ちながら、ゼノス公爵が悠然と歩み寄ってきた。
「……ほう。……私の氷の道が、この船を支えているというのに。……執事風情が、どの口で『招かれざる』などと言うのか」
ゼノス様は軍服を脱ぎ、私に合わせて用意させた紺碧のプライベート・ウェアを纏っていた。
彼の鍛え抜かれた胸筋が、薄い生地越しにその存在を主張し、私の隣に座るなり、当然のような顔をして私の腰にその逞しい腕を回した。
ゼノス閣下の逞しい腕が、私の腰を強引に、けれど壊れ物を扱うような繊細さで引き寄せた。
彼の指先から漏れ出る冷気が、ドレスの生地越しに私の肌を心地よく刺激し、潮風で火照り始めていた体温を優しく鎮めていく。
「……リリアーヌ。……この船の上では、君を遮る壁も、君を連れ去る馬車もない。……この蒼き深淵の真ん中で、君を守り、君を愛で、君の視界を独占できるのは……この私だけだ」
ゼノス様が、私の耳朶に熱い吐息を吹きかけるようにして囁いた。
彼の瞳は、かつての冷徹な「氷の公爵」のそれではなく、手に入れた唯一無二の至宝を、誰の手にも触れさせたくないという、狂おしいまでの執着に焼かれていた。
(……ギャーー!! ……至近距離! 閣下の顔面偏差値が、洋上の反射光でさらに五割増しになってるわ……! ……この『逃げ場のない豪華客船』というシチュエーション、乙女ゲーの限定イベント【真夏の洋上・独占愛】そのものじゃない!)
私が動揺してティーカップを震わせていると、反対側からシオンの影が、物理的な質量を伴って私の肩を包み込んだ。
「……閣下。……お嬢様の耳元を汚すのは、その辺にしていただけませんか? ……お嬢様。……この船のエンジンルーム、および全ての客室の鍵。……私の影が直接管理しております。……たとえ閣下が氷の壁を築こうとも、お嬢様の『許可』なく、その寝室に指一本触れさせるつもりはありませんよ」
シオンが私の手首をそっと握り、その細長い指先で、私の掌を執拗なほど丁寧に撫で上げた。
シオンの瞳は、お嬢様の自由を尊重しているようでいて、その実、お嬢様の移動範囲、呼吸の回数、そして心拍数の変化までをも、影のネットワークで完全に「把握」している。……その徹底した過保護ぶりが、今は心地よい安心感として私を包み込んでいた。
「……あら、二人とも。……そんなに私を囲い込んで、どうなさるおつもり? ……私は、アリアちゃんやシルと一緒に、この広大な海を楽しみたいだけなんですのよ?」
私が扇子を広げ、わざとらしく困った顔をしてみせると、足元でアイスクリームを完食したシルが、満足げに私の膝に大きな頭を乗せてきた。
「キュ、キュアァ~……」
シルは黄金の瞳を細め、「僕もリリアーヌのことが一番大好きだよ!」と言わんばかりに、ふかふかの首元を私に差し出してくる。……その温かさ、柔らかさ。
隣には、私を愛して止まない帝国最強の公爵。
背後には、私のすべてを捧げる執念の執事。
目の前には、自由に笑い、スコーンを頬張る『最推し』のアリア。
そして腕の中には、世界一の癒やしである聖獣シル。
「…………。……ああ、……本当に、幸せですわ」
私は、青い空と海が溶け合う水平線を眺めながら、心の底から溢れ出す充足感に浸った。
(……デバッグは完了した。……世界の理は書き換えられ、誰もが自分の望む役割を謳歌している。……不穏な影も、不気味な囁きも、……そんなものは、もうこの海の底に沈んでしまったのね)
私は、シオンが注いでくれた極上のシャンパンを一口含み、ゼノス様の肩にそっと頭を預けた。
豪華客船の揺れは、私の設計通りに極限まで抑えられ、ただ心地よい微睡だけを運んでくる。
私の端末には、アルベルトから『海上通信テスト、オールグリーン。不具合ゼロです』という、この上なく平和な報告が届いていた。
「……さあ、皆様。……バカンスは始まったばかりですわよ。……明日は、海の底に眠る『古代の沈没船(お宝)』を、私の最新ドローンで発掘しに行きましょうか!」
「……君の望むままに、リリアーヌ」
「……御意、お嬢様。……海の底の果てまで、お供いたしますよ」
二人の男たちの誓いと共に、豪華客船は一点の曇りもない未来へと向かって、白い飛沫を上げながら突き進んでいく。
リリアーヌの「もふもふ海上スローライフ」。
それは、世界のシステムに守られ、誰にも邪魔されることのない、完璧な楽園として完成されていた。




