第8話:馬車の中は、聖女様(推し)の香りがします
シオンが追っ手の「鼠」を掃除するために馬車を降りてから、数刻が経過した。
御者台には、シオンが事前に手配していた信頼の置ける――といっても、彼に恐怖で支配されているであろう――寡黙な替えの御者が座り、馬車を一定の速度で走らせ続けている。
車内には、私とアリア様の二人きり。
窓の外から聞こえるのは、夜風が木々を揺らすざわめきと、時折遠くで響く正体不明の破砕音だけだ。おそらくシオンが、追っ手の馬の脚でもへし折っているのだろう。
「……あの、リリアーヌ様。シオンさんは、大丈夫でしょうか?」
アリア様が、不安そうに窓の外を窺いながら尋ねてきた。
その上目遣い! 少し湿った睫毛が震える様!
……ああ、もう。画面越しに見ていた「守護欲を煽るヒロイン」の破壊力は、生身だと核爆弾級だわ。
(大丈夫に決まってるじゃない! あの人は隠しキャラで、実力だけなら魔王とも渡り合える設定なのよ。むしろ心配なのは、彼に狙われた追っ手の方だわ……合掌)
私は内面の絶叫を飲み込み、リリアーヌとしての優雅な所作で、ティーカップ(といっても、魔法で保温された簡易的なものだが)を口に運んだ。
「心配いりませんわ、アリア様。あの男は、私に許可なく死ぬことさえ許されない身ですから。……それよりも、貴女。少しお顔の色が戻ってきましたわね。さあ、冷えないうちにもう少しお食べなさい」
「あ、ありがとうございます……リリアーヌ様。……リリアーヌ、様」
アリア様が、慣れない手つきで私の名を呼ぶ。
その瞬間、私の脳内では前世のオタク知識がスパークした。
ゲーム『純七』では、リリアーヌとアリアは最後まで敵対し、リリアーヌが処刑されるルートでは、アリアがその墓前に一輪の花を供える……という切ないエンドがあった。
だが、今、目の前のアリア様は、私の隣で、私が差し出したスコーンを両手で持って、ハムスターのように小さく咀嚼している。
(……神。これこそが神展開。公式が最大手……じゃなくて、私が歴史を塗り替えたのね!)
私は感動のあまり震えそうになる指先を隠すため、扇子を広げて口元を隠した。
アリア様の近くに座っていると、彼女の体温と共に、微かに甘い香りが漂ってくる。それは香水の人工的な匂いではなく、聖女としての魔力が放つ、陽だまりのような、どこか懐かしい百合の香り。
(……くんくん。……はぁぁ、これが聖女の香り。吸うだけで寿命が延びる気がする。この馬車の空気を缶詰にして保存したい。……ダメよ、結衣! 今の私は高潔なるリリアーヌ・アステリアなのよ。変質者みたいな真似はやめなさい!)
自分を叱咤激励しつつ、私はアリア様の汚れなき瞳を見つめた。
「アリア様。……貴女、これからどうしたいか、考えていらして?」
アリア様の手が止まった。
彼女は悲しげに視線を落とし、小さく首を振った。
「私には、帰る場所がありません。……平民の出で、奇跡が使えるからと教会に連れて行かれて。でも、殿下たちに『偽物』だと言われてしまったら、もう、どこにも……」
「……バカバカしいわね。貴女の力が本物かどうか、そんなことは隣にいる私が一番よく分かっていますわ。……アリア様。これからは、誰かのための『聖女』ではなく、一人の女の子として生きてみたくはありませんか?」
「一人の……女の子……?」
「ええ。美味しいものを食べて、可愛い服を着て。嫌なことは嫌だと言い、好きなものを好きだと言う。……私がこれから向かう隣国は、魔導が発達した自由な国です。そこなら、貴女を縛る『聖女の義務』なんてありませんわ」
私は彼女の細い手を、そっと握りしめた。
アリア様の手は驚くほど冷えていたが、私の手が重なると、びくりと跳ねた後に、力強く握り返してきた。
「リリアーヌ様と一緒に、行ってもいいのでしょうか……?」
「当たり前でしょう? 貴女をあんなバカ王子のところに置いてくるなんて、私の美意識が許しませんわ。……それに、私は決めたのです。これからは、自分の『推し』――いえ、大切なものだけを愛でて生きると!」
「おし……? リリアーヌ様、おしって、何ですか?」
「……気にしないで。高貴な遊びの隠語のようなものですわ」
私は苦しい言い訳をしながら、アリア様の頭を優しく撫でた。
柔らかい髪の感触。指の間を滑り落ちる絹のような糸。
ああ、幸せ。これが幸せの正体。
馬車は深い夜の森を抜けていく。
まだ隣国までは距離があるし、シオンがいつ戻ってくるかも分からない。
王国の軍勢が本気で追いかけてくる可能性もある。
けれど、私の心は不思議と軽かった。
(アリアちゃんは私が守る。シオンは私が飼い慣らす。そして隣国に着いたら、もふもふの聖獣を膝に乗せて、美形のモブ騎士さんたちを遠目に眺めながら、最高のスローライフを送るんだから!)
私の壮大な野望を知ってか知らずか、アリア様は安心したように私の肩に頭を預けてきた。
小さな寝息が聞こえ始める。
(……っ!? か、肩を貸してる!? アリアちゃんが私の肩で寝てる! 重力に感謝! このまま地球の自転が止まっても構わない!)
私は喜びのあまり白目を剥きそうになりながらも、彼女を起こさないよう、石像のように固まってその重みを受け止めた。
馬車の揺れが、今は心地よい子守唄のように感じられた。




