第9話:お帰りなさいませ、血の匂いのする執事様
アリア様が私の肩で規則正しい寝息を立て始めてから、どれくらいの時間が経っただろうか。
窓の外を流れる景色は、深い森の闇から、次第に霧の立ち込める幻想的な湿地帯へと変わっていた。馬車の揺れに身を任せ、私も微睡みの中に落ちようとした、その時。
コト、と。
走行中の馬車の屋根に、羽毛が落ちるような軽い衝撃が走った。
(……来たわね。この気配、間違いなく『彼』だわ)
私はアリア様を起こさないよう、慎重に肩を動かさず、窓の外を注視した。
すると、並走する風の中に、銀色の髪が翻るのが見えた。次の瞬間、音もなく客車の扉が開け放たれ、夜の冷気と共に一人の男が滑り込んできた。
「……ただいま戻りました、お嬢様。少々お待たせしてしまいましたね」
シオンだ。
彼は乱れた髪一つなく、完璧な微笑みを湛えて私の前に膝をついた。
だが、その身に纏う空気は、出立前とは明らかに異なっていた。鋭利な刃物のような冷たさと、隠しきれない鉄錆の匂い――。
「おかえりなさい、シオン。……怪我はないかしら?」
「お嬢様、私を誰だと思っておいでですか。あのような道端の石ころをどけるのに、怪我など負うはずがございません」
シオンは私の手を取り、その甲に深く、吸い付くようなキスを落とした。
その唇が、微かに震えている。
……あ、これ、興奮してるわね。
ゲーム『純七』でのシオンは、お嬢様のために「邪魔者」を排除した直後、高揚感と独占欲がピークに達する設定だった。今の彼は、全年齢対象の限界を攻めるような、熱っぽく、そして暗い瞳で私を見上げている。
「……お嬢様。その小娘を、随分と親密に扱っておいでですね」
シオンの視線が、私の肩で眠るアリア様に向けられた。
声のトーンが一段下がる。周囲の空気が、物理的な重圧となって肌を刺す。
「あら、嫉妬かしら? アリア様は私の大切なお友達ですもの。エスコートするのは当然でしょう」
「お友達、ですか。……ふふ、お嬢様は慈悲深い。ですが、私の隣以外に貴女の居場所があるなど、認めがたい事実です。……いっそ、このまま国境を越えず、私が用意した『誰にも見つからない場所』へお連れしましょうか?」
(出た! ヤンデレ特有の監禁宣言! これ、攻略対象だったらときめくシーンなんだろうけど、生で言われると本気で怖いわよ!)
私は内心で冷や汗を流しながらも、リリアーヌとしての傲慢な態度を崩さない。
むしろ、シオンの頬に手を伸ばし、指先で彼の頬に付着していた「赤い汚れ」を拭い取った。
「馬鹿なことを言わないで。私は自由を求めて国を捨てたのよ。貴方の籠の中に入るためではないわ。……それとも、私の執事は、主人の命令に従えないほど無能になったのかしら?」
私が挑発的に微笑むと、シオンは一瞬だけ目を見開き、それから恍惚とした表情で私の指先に頬を寄せた。
「……失礼いたしました。お嬢様にそのように見つめられては、抗えるはずもございません。私は貴女の忠実な猟犬。……貴女が望む地まで、この身を賭してお運びいたしましょう」
シオンは私の指先に、何度も、何度も、なぞるように口づけを繰り返した。
……重い。本当に重いけど、やっぱり顔がいいから許せてしまうのが、限界オタクの悲しい性ね。
「ところでシオン。追っ手はどうしたの?」
「ご安心を。しばらくは誰も追いかけては来られません。……馬も、人も、二度と立ち上がれないようにしておきましたから」
(ひぇ……。聞かなきゃよかった。絶対に聞いちゃいけないやつだったわ……)
私はアリア様の頭をそっと撫で、彼女がこの恐ろしい会話を聞いていないことを神に感謝した。
馬車は深い霧の中を突き進んでいく。
シオンは私の足元に座り込み、番犬のようにじっと私を見つめ続けている。その視線があまりにも熱烈で、眠気なんてどこかへ吹き飛んでしまった。
(シオンの独占欲、アリアちゃんの聖女パワー、そしてこれから出会うはずの『もふもふ』……。私の新生活、前途多難どころか、毎日がクライマックスになりそうだわ)
私は窓の外に目を向けた。
霧の向こう側。いよいよ、この国の支配が及ばない「国境の森」が姿を現し始めていた。
そこは、人ならざる者が住まう場所。
私の『推し活』が本格的に始動する、未知なるステージ。
「……さあ、シオン。夜明けまでに国境を越えるわよ」
「御意のままに。地獄の果てまで、お供いたしますよ、リリアーヌお嬢様」
不敵に笑う執事と、眠り続ける聖女。
奇妙な三人連れを乗せた馬車は、運命の境界線へと車輪を走らせた。




