第10話:国境の森、そこは魔物の楽園でした
馬車の車輪が、それまでの石畳や整えられた街道とは明らかに違う、湿った土と腐葉土の感触を捉えた。
窓の外を流れる景色は、もはや人の手が加わった森ではない。天を突くほどに巨大な巨木がひしめき、奇妙な光を放つ苔や、見たこともない色彩の毒々しい花々が闇の中に浮き上がっている。
「……ここが、アステリア王国と隣国の境界、『迷い子の森』ですか」
アリア様が、不安そうに窓の外を覗き込んで呟いた。
彼女の細い肩が、冷気と未知への恐怖で微かに震えている。
「ええ。人族を拒む、魔物の楽園。……ですが、ここを抜ければもう、あのバカ王子の手は届きませんわ。安心なさい、アリア様」
私はリリアーヌとしての不敵な笑みを浮かべつつ、内心では別の意味で興奮していた。
(……ついに来た! 隠しエリア『迷い子の森』! ゲームでは高レベルの魔物がうじゃうじゃいて、何度も全滅しかけたトラウマエリアだけど……生で見ると、この幻想的な雰囲気、最高にエモいわ!)
前世の結衣としてのオタク心が、危険な森を「観光地」として認識し始めている。
だが、そんな私の余裕を打ち消すように、馬車の前方に異様な殺気が立ち込めた。
「――お嬢様。少々、騒がしくなりそうです。中でアリア殿の手を引いていてください」
御者台からシオンの声が響いた。
直後、地響きと共に森の奥から巨大な影が飛び出してきた。
それは、並の冒険者なら一目散に逃げ出すであろう、体長五メートルを超える「大牙狼」の群れだった。
「きゃっ!?」「……騒がしいわね」
アリア様の悲鳴と、私の冷ややかな声が重なる。
だが、次の瞬間に起きた光景は、もはや戦闘と呼べるものではなかった。
「……私の主人の眠りを妨げる、不届きな獣どもが」
シオンが御者台から飛び降り、着地するよりも早く、彼の周囲で銀色の光が閃いた。
不可視の斬撃。
シオンがその細身の身体で一回転しただけで、襲いかかってきた三頭の狼が、血飛沫を上げることすら許されず、細切れになって森の闇へと消えていった。
(……ひぇっ。相変わらずシオンの戦闘描写、全年齢対象の限界を攻めてるわね。でも、戦う推しの背中、マジで抱きつきたいほど格好いい!)
シオンは乱れた呼吸一つなく、手に持った細剣を、血を一滴もつけずに鞘へと戻した。
彼はそのまま馬車の窓をコンコンと叩き、優雅に一礼する。
「お騒がせいたしました、お嬢様。害獣の駆除は完了いたしました」
「……ええ、ご苦労様。流石は私の執事ね」
「勿体なきお言葉。……ですがお嬢様、この先は少し空気が変わります。……『彼』が、お出ましになるようですので」
シオンの瞳が、これまでにないほど鋭く細められた。
シオンが警戒している? あの最強執事が?
森の奥から、霧を裂いて「それ」が現れた。
狼のような魔物ではない。
静謐で、神聖で、それでいて圧倒的な存在感。
それは、雪のように真っ白な、長い毛並みを持った巨大な獣だった。
額には一本の透き通った角があり、金色の瞳が、夜の闇の中で月のように輝いている。
(……うそ。あれって、ゲームの伝説のイベントでしか見られなかった、幻の聖獣『白銀の守護獣』……!?)
アリア様が、息を呑んでその獣を見つめている。
シオンはいつでも獲物を仕留められるよう、指を暗器の柄にかけた。
だが、その聖獣は攻撃してくる気配を見せなかった。
ゆっくりと、まるで高貴な貴婦人に挨拶をするかのような足取りで、馬車の前まで歩み寄ってくると、大きな頭を垂れたのだ。
「……あ。リリアーヌ様、あの……」
アリア様が、驚きに目を見開いている。
私もまた、自分の心臓が、今までとは違う意味で激しく鼓動するのを感じていた。
(……え。待って。白銀の守護獣って、純粋な魂を持つ者にしか心を開かないっていう設定だったはずよね。……なんで、悪役令嬢(私)に、こんなに懐っこそうな顔をしてるの?)
聖獣は、クンクンと私の匂いを嗅ぐように鼻を動かすと、突然、甘えるような低い声で「ふんっ」と鼻を鳴らした。
そして、私の手の届く距離まで、その、最高に柔らかそうな「もふもふ」の首元を差し出してきたのだ。
(…………。…………耐えられない。……無理。これ、触ってもいいやつよね!?)
私はリリアーヌの仮面をかなぐり捨てそうになるのを必死に抑えつつ、震える手を伸ばした。
指先が、雪のような純白の毛並みに触れる。
「……っ!? ああ……、なんて、なんて柔らかいの……」
極上のシルクよりも滑らかで、それでいて温かい。
指が沈み込むほどの、圧倒的なボリュームの毛。
限界オタク・結衣は、この瞬間に誓った。
(決めたわ。この子、誘拐……じゃなくて、一緒に連れて行く! 隣国でのスローライフには、このもふもふが不可欠だわ!)
執事のヤンデレ、聖女の癒やし、そして伝説の聖獣のもふもふ。
カオスすぎる一行を乗せた馬車は、いよいよ国境を越え、新たな物語の舞台へと突入する。
「シオン。この子も、私たちの仲間に加えますわよ」
「……お嬢様。その……それは、流石に私の手に余りますが」
「いいから、何とかしなさい!」
困惑する執事を尻目に、私は聖獣の首元に顔を埋め、前世では決して味わえなかった「至福のひととき」を、逃亡中であることを忘れて満喫し始めた。




