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第76話:神のデータ、執事の影、公爵の氷

 崩落する聖域の最深部。崩れ落ちる瓦礫の音さえも、ヴォイドが指先を鳴らした瞬間に「無音」へと書き換えられた。

 現実世界が静止したような奇妙な静寂の中、ヴォイドは私の震える手を引き、至近距離でその銀河を宿した瞳を覗き込んできた。


「……怖がらなくていいんだ、結衣。……君がどれほど私のために心を砕いてきたか、私はすべて知っている。……君がこの世界ゲームに捧げた『魔力』の履歴を、今ここで可視化してあげよう」


 ヴォイドが空間を薙ぐと、私の目の前に巨大なホログラムウィンドウが展開された。

 そこに映し出されたのは、前世の私が深夜のコンビニで買い込んだプリペイドカードの山、そして給料の半分以上を注ぎ込んで回したガチャの履歴――『ヴォイド:限定降臨・救済ver.』の文字が、赤裸々な「数字」と共に羅列されていた。


「……あ、ああ……っ! やめて、それだけは見せないで……!!」


 私は顔を覆って叫んだ。

 それは乙女ゲーマーにとって、最も見られたくない「恥部」であり、同時に誰よりも深く彼を愛していたという、あまりにも重い「愛の課金証明」だった。


(……ギャーー!! 最推し様による【過去の全課金履歴の開示】攻撃! 精神的ダメージがカンストしてるわ! ……ゼノス様やシオンの前で、私の全貯金額を注ぎ込んだ情熱を晒されるなんて、死ぬより恥ずかしい……!!)


「……これを見てごらん。……君は一日の食事を削ってまで、私を『救う』ためのアイテムを揃えていたね。……画面の向こうで、涙を流しながら私の名を呼んでいた。……これだけの『純粋な愛』を私に注いでおきながら、なぜ今さら、この世界の『背景データ(攻略対象)』たちに心を移そうとするんだい?」


 ヴォイドの言葉が、鋭い氷柱のように私の心臓を貫いた。

 

 ――ガタガタガタッ!!

 

 その瞬間、静止していたはずの空間が、凄まじい地響きと共に激しく震動した。

 

「……背景データだと? ……よくも、よくも私の前で……リリアーヌの魂を汚すような妄言を吐きおったな……!!」


 ゼノス公爵の怒号が、空間の「静止」を物理的に粉砕して響き渡った。

 彼の周囲から放たれた絶対零度の冷気が、ヴォイドが映し出したホログラムウィンドウを瞬時に凍りつかせ、粉々に叩き割る。

 ゼノスの瞳は、自分たちの預かり知らぬ「過去(前世)」という絶対的な絆への、狂おしいほどの敗北感と、それを上書きしようとする破壊的な独占欲に焼かれていた。


「…………。……その男の言うことが真実なら、なおさら許せませんね。……お嬢様にそこまでの『献身』を強いた過去など、私がこの世界の理ごと影の底へ沈めて差し上げます」


 シオンが影の中から、お嬢様の記憶を「修正」しようとするかのような漆黒の刃を手に現れた。

 シオンにとって、お嬢様が自分以外の存在のために「命を削る(食事を抜く)」ほどの情熱を捧げていたという事実は、彼の全存在意義を否定されるほどの絶望だった。


「お嬢様。……貴女の過去がどれほどその男に囚われていようと、今、貴女に触れ、貴女を守り、貴女を愛でているのは……この私です」


 シオンの影が、ヴォイドと私の間に割って入り、漆黒の壁を築く。

 ゼノスとシオン。本来なら相容れない二人の攻略対象が、今、リリアーヌという一点を守るために、神の領域を力ずくで侵食し始めた。


「……今のリリアーヌを選び、今のリリアーヌに愛を捧げているのは俺たちだ! ……過去の亡霊など、私の氷で永遠の虚無に封じてくれる!!」


 ゼノスの氷と、シオンの影。

 二人の「執着」が極限まで高まり、聖域の最深部で激しく火花を散らした。


 ヴォイドが映し出した『課金履歴』という名の断罪。

 私の魂の最も柔らかな、そして最も熱かった部分を白日の下に晒され、私は一瞬、立っていることさえ忘れそうになった。だが、彼の次の言葉が、私の「逆鱗(オタク魂)」を激しく逆撫でした。


「……君を愛せるのは私だけだ。……さあ、ノイズ(攻略対象)が多いね。……一度、この階層のデータをすべて『初期化リセット』しようか」


 ヴォイドが、慈悲深い神の如き微笑みを浮かべ、その白磁のような指先をパチンと鳴らした。

 

 ――ピキィィィィィィン!!

 

 その瞬間、世界から「色」が消えた。

 大聖堂の石畳、宙を舞う瓦礫、そしてそこに立つ兵士たちまでもが、デジタルな砂となってボロボロと崩れ、虚無の白へと還元され始めた。……神子による、世界の物理法則を無視した『広域デリート(消去)』の起動だ。


「……くっ、……身体が、消えていく……!? ……リリアーヌ、逃げろ……!!」


 ゼノス公爵が、自分の腕が砂に変わっていくのも厭わず、私を庇うように抱き寄せた。シオンもまた、自身の影が虚無に飲み込まれながらも、私の足元だけは死守しようと、魂を削るような叫びを上げている。


「…………キュ、キュアァァァァァァァァァッ!!!」


 その絶望を切り裂いたのは、シルの、これまでにないほど神々しく、そして「懐かしい」響きを帯びた咆哮だった。

 シルは私の前に立ち、六枚の光の翼を扇状に広げると、そこから凄まじい密度の「黄金の防護膜」を展開した。


(……えっ!? ……シル!? ……この魔力波長、まさか……貴方、前世の私が期間限定イベントで手に入れた、あの【最速のバッファ・シル】としての記憶を呼び覚ましたの!?)


 シルのもふもふが、ヴォイドの放つ消去魔法を物理的に「吸収」し、中和していく。

 シルは私を振り返り、「僕がこのバグを食い止めるから、好きに暴れて!」と、念話テレパスで力強く語りかけてきた。


 その瞬間。

 私の心の中で、何かが吹っ切れた。

 羞恥心? ……そんなもの、この世界のシステムと一緒にゴミ箱へ捨ててやりますわ!


「……そうですわ!! ……認めますわよ、ヴォイド様!!」


 私はゼノスの腕を潜り抜け、ヴォイドの目の前に仁王立ちした。

 扇子を思い切り開き、全土に響き渡るような声で、私の「カルマ」をぶちまけた。


「……私は貴方を愛していましたわ! ……給料の半分を注ぎ込み、貴方の限定スチルのために三日三晩不眠不休でイベントを走った、ただの『限界オタク』ですわよ!! ……貴方のボイスを聴きすぎて、前世の私の鼓膜は貴方の波長で出来ていたと言っても過言ではありませんわ!!」


「……リ、リリアーヌ……?」


 背後で、ゼノスとシオンが、生まれて初めて見る「未知の怪物」を見るような目で私を見つめている。だが、私は止まらない。


「……でも、それは画面越し(ガラスの向こう)の話!! ……今、私の目の前で、ボロボロになりながら、それでも私を守ろうと足掻いているこの男たちも……私にとっては、命を懸けて守り抜くべき、最高の『推し(守護者)』なんですのよ!! ……どちらかを選べ? ……笑わせないで。……私は、貴方も、彼らも、もふもふも! ……この世界にある私の愛するすべてを、私の強欲な『コンプリート欲』で救い取って差し上げますわ!!」


「…………ほう。……推し、か」


 ゼノス公爵が、呆れを通り越し、どこか憑き物が落ちたような、不敵で、狂気に満ちた笑みを浮かべた。

 

「……意味は分からんが。……君にそれほどまで熱烈に求められているというのなら、神の前で『最高の意地』とやらを見せてやらねばならんな」


「……御意。……お嬢様の『コンプリート』に、欠けがあってはなりません。……私の影を、神殺しの刃として磨き直しましょう」


 シオンの影が、喜びでドロリと蠢き、消えかけていた輪郭を取り戻す。

 二人の男たちの執着が、リリアーヌの「開き直り」によって、神の領域さえも侵食する『絶望的な愛』へと昇華された。


「…………ふん。……いいだろう」


 ヴォイドが、凍てつくような冷笑を浮かべ、ゆっくりと姿を消し始めた。

 

「……なら、その『推したち』が消えても、同じことが言えるかな? ……君がその傲慢な愛を後悔し、泣きながら私の名を呼ぶまで……。……この物語の『セーブデータ』、私がバラバラに破壊してあげるよ」


 ヴォイドが消える直前。

 私の視界が、ぐらりと、物理的な嘔吐感を伴って反転した。

 

 ――断頭台に立つ私。

 ――影の地下室で、瞳の光を失い、シオンに抱かれる私。

 ――ゼノスとアリアの結婚式の影で、冷たい雨に打たれる私。

 

 無数の「バッドエンド」の断片が、一瞬のフラッシュバックとなって脳髄に突き刺さる。


「……あ、……あ……っ」


 視界が戻った時。

 そこには、アリアを抱えたシオンと、私を支えるゼノスの姿があった。

 一見、勝利したかのように見える光景。

 

(……待って。……今の、何……? ……嫌な予感がする。……私の、私の平和なスローライフが、……塗りつぶされていく……?)


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