第75話(前編):大聖堂陥落――そして神の領域へ
豪華客船『アステリア・マギ・クイーン』号が、諸島連合の最終防衛ラインを越え、海図にすら記されていない禁忌の海域『ヴォイド・セーラ』へと侵入したその時。
それまで穏やかだった紺碧の海面が、まるで沸騰したかのように激しく泡立ち、空を覆う雲が禍々しい螺旋を描き始めた。
「……来ましたわね。……この『拒絶』の魔力波長。……聖都で壊した偽物とは比べ物にならない、本物のシステム・プロテクトだわ」
私は、激しく揺れる展望デッキの甲板に立ち、黄金の『シル・フォン』を空にかざした。
画面には、処理能力の限界を示す真っ赤なアラートが滝のように流れ、私の設計した防護結界が、外側から未知の「概念上書き」によって侵食されていることを示していた。
(……ふふ。……いいわ。……これこそが、前世の私が課金してでも辿り着きたかった、隠しダンジョンの入り口……! ……ゼノス様、シオン! 振り落とされないように、しっかり捕まっていてくださいまし!)
海面が、一筋の巨大な亀裂を中心に、左右へと割れていく。
その裂け目から、数千年の時を止めていた『真の大聖堂』が、海水と共に、轟音を立てて浮上してきたのだ。
それは、地上にある白亜の建築物とは全く異なる異容だった。
黒いクリスタルと、脈動する青い魔力の管が剥き出しになった、巨大な「生きている要塞」。
尖塔の先からは、世界の理を監視する『神の瞳』を象った魔導レンズが、不気味な光を放ちながら私たちを見下ろしていた。
「……これが、教会の根源か。……もはや信仰の場ではないな。……冷徹な、殺戮のための機械仕掛けの神殿だ」
ゼノス公爵が、激しい海風に軍服の外套を翻しながら、腰の剣を抜き放った。
彼の周囲の海面が、一瞬にして数キロにわたって凍りつき、浮上した大聖堂を固定する「氷の楔」となる。ゼノスの瞳は、未知の脅威を前にして、かつてないほどの好戦的な色を帯びていた。
「……リリアーヌ。……君の言う通りだ。……こんな不気味なものが、アリア殿や、そして君を縛っていたというのなら……。……私の氷で、その心臓ごと粉砕し、永遠の静寂に沈めてやる」
ゼノスが空を指差すと、空中艦隊から一斉に凍結弾が放たれ、大聖堂の外壁を白く染めていく。
「…………お嬢様。……影が、泣いています。……この建物自体が、数え切れないほどの『生贄の魂』で編み上げられている。……お嬢様の美しい手を汚すには、あまりに不浄が過ぎますね」
シオンが私の影の中から、物理的な質量を持った「巨大な影の手」を伸ばし、大聖堂の入り口を塞いでいた守護兵たちを、文字通り紙屑のように握りつぶした。
シオンの瞳は、お嬢様の「推し」を奪った教会の本山に対し、底なしの殺意と、それ以上に深い「独占欲」を燃やしていた。
「……お嬢様を、あのようなゴミ溜めへ歩かせるわけにはいかない。……私の影を敷き詰め、お嬢様の靴に一滴の汚れも付かないよう、完璧にエスコートいたしましょう」
(……ああ。……ゼノス様、シオン。……貴方たちのその狂気じみた頼もしさ、今は最高に頼りになるわ。……でも、私の目的は、この建物を壊すことだけじゃないのよ)
私は、首元の『第一の封印(孤独の鎖)』が、大聖堂の浮上に合わせて、熱いほどに脈動しているのを感じていた。
その時。
浮上した大聖堂の頂上、空を貫く尖塔の先から、まばゆい白銀の光が放たれた。
――「……待っていたよ。……私の、唯一のプレイヤー」
脳髄に直接響く、あの神子の声。
船のメインホールで保護していたアリア様が、何かに導かれるように甲板へとふらふらと歩み出てきた。
彼女の瞳は再び、世界のシステムと同期した「無機質な金色」へと変わりつつあった。
「……あ、ああ……。……あそこに、……あそこに、私を呼ぶ『神様のバグ』がいます……。……リリアーヌ様、……行かなければ……」
「アリアちゃん!? ダメよ、行っちゃ!」
私がアリア様の手を掴もうとした瞬間、大聖堂から伸びた『光の触手』が、物理法則を無視して彼女を絡め取り、空へと引き上げた。
「……アリア殿ッ!!」
ゼノスの氷の矢が、光の触手を射抜こうとするが、触手は空間ごと転移し、アリア様を大聖堂の深部へと連れ去っていった。
静まり返る海域。
目の前に聳え立つのは、神の領域。
私は、震える拳を握り締め、背後の男たち、そして聖獣シルに向き直った。
「……皆様。……準備はよろしいかしら? ……これから、この世界で最も贅沢で、最も非情な『最終メンテナンス』を始めますわよ!!」
リリアーヌの号令と共に、豪華客船は戦艦へと変貌し、神の庭へと突撃を開始した。
アリア様を奪い去った光の触手が、真の大聖堂『プロト・カテドラル』の深層へと消えた瞬間、私の周囲の空気は、物理的な質量を伴った「殺意」によって凝固した。
豪華客船『マギ・クイーン』号の甲板が、ギチギチと嫌な音を立てて軋んでいる。それは荒波のせいではない。私の左右に立つ、二人の男から溢れ出した魔力の奔流が、空間そのものを歪めているのだ。
「……私の目の前で、二度までも彼女を奪うか。……神の名を語る機械風情が、よほど粉々に砕かれたいようだな」
ゼノス公爵の声は、もはや怒りを超越し、絶対零度の静寂へと至っていた。
彼が指先を天空へ向けると、上空に待機していた帝国の魔導軍艦から、数千本の『氷結の槍』が、流星群のような速度で大聖堂の外壁へと降り注いだ。
ドォォォォォォォォォン!!
神聖な防御結界が、ゼノスの放つ「執着の冷気」に耐えきれず、悲鳴を上げて凍りつき、次々と粉砕されていく。
「……リリアーヌ。……道は私が作る。……君は、その汚れた祭壇の主を、私の隣で嘲笑ってやればいい」
「…………。……公爵、手ぬるいですね。……お嬢様の視界を遮るものは、この世界の理ごと、私の影で咀嚼して差し上げますよ」
シオンの影が、海面を真っ黒に染め上げながら、大聖堂の巨大な基部を「捕食」するように這い上がっていく。
シオンの瞳は、お嬢様の『推し』を傷つけたこの場所を、一秒でも早くこの世から消し去りたいという、ドロリとした狂気に染まっていた。
彼の影の触手が、大聖堂の防衛機構である魔導人形たちを、文字通り塵にすら残さず闇の中へと引きずり込んでいく。
(……ああ。……ゼノス様、シオン。……貴方たちのその、世界を敵に回しても私を優先する『バグ』のような愛情。……今の私には、何よりも頼もしいデバッグツールですわ!)
私は、黄金の『シル・フォン』を構え、船の先端に立った。
「……皆様、お聞きなさい! ……神の領域だか、世界の終焉だか知りませんが! ……私の『推し』の笑顔を奪い、私の『男たち』に怪我をさせた罪! ……今この瞬間、全宇宙のビット数を超える絶望で、一文字残らず書き換えて(デバッグして)差し上げますわ!!」
私は、首元の『孤独の鎖』に魔力を注ぎ込み、大聖堂のメインサーバーへと強行アクセス(ダイブ)を仕掛けた。
――ピキィィィィィィン!!
大聖堂の外壁に、巨大なエラーウィンドウが幾重にも重なって浮かび上がる。
それは、教会の数千年の歴史が、一人の悪役令嬢の「現代的知性」によって、ただの脆弱性の塊として処理され始めた証拠だった。
「……全セキュリティ、物理・魔導ともに強制突破! ……ターゲット、最上階『星辰の祭壇』! ……進軍ですわよ!!」
私はシルの背に飛び乗り、凍りついた海を滑るようにして、大聖堂の入り口――神の喉元へと突入した。
内部は、地上の大聖堂とは比較にならないほど、幾何学的で無機質な「機械の迷宮」だった。
壁一面に流れる青い魔導回路。脈動するクリスタルの柱。
そこを、ゼノスの氷が切り裂き、シオンの影が飲み込み、私の放つハッキング波が、防衛システムを次々と「沈黙」させていく。
「……見えましたわ。……あのアナログな光の柱の先……」
最深部の巨大な扉が、シルの咆哮と共に粉々に砕け散った。
そこに広がっていたのは、星空をそのまま床に敷き詰めたような、幻想的で、けれどどこか寂しげな空間。
その中央。
世界のすべてを司るという『零番目の演算機』に、無数の光の鎖で繋がれたアリア様が、虚ろな瞳で宙を見つめていた。
そして。
そのアリア様の背後。
玉座に浅く腰をかけ、退廃的な美しさを湛えながら、私を……いや、私の魂(結衣)を見つめている、一人の青年がいた。
「……あ。……嘘、でしょ……。……どうして、貴方が、ここに……」
私の唇が、無意識にその名を紡いだ。
「……ヴォイド。……私の、最推し様……」
銀河を封じ込めたような瞳が、私を捉えて、甘く、残酷に細められた。




