第70話(裏):零番目の聖域――神子(みこ)と枢機卿の盤上
大聖堂が崩落し、黄金の陽光が地上を照らし始めたその瞬間。
雲海を遥かに超え、星々の瞬きが手に届くほどに近い高空――物理的な法則を拒絶し、クリスタルの花々が永遠の静寂の中に咲き乱れる『零番目の聖域』。
そこには、地上の喧騒など微かなノイズにすらならない、絶対的な静謐が支配していた。
本物の枢機卿ルカは、自身の遠隔端末がリリアーヌの手によって物理的に粉砕された瞬間の感覚を、自身の指先で静かに反芻していた。
彼は真っ白な祭壇の前で膝を突き、深淵を映したような鏡面の床を見つめていた。
「……完敗ですよ。リリアーヌ様という『例外』は、私の用意した神のシナリオを、その傲慢なまでの知性ですべて焼き尽くしてしまいました」
ルカの声は、地上で見せた欺瞞に満ちたものとは異なり、どこか憑き物が落ちたような、そして奇妙な悦びに震えていた。
「……ですが、お目覚めになられたのですね。……私の稚拙な挑発が、ようやく貴方の『刻』を動かした」
ルカが深く頭を垂れた先。
銀河の縮図を閉じ込めたようなホログラムの帳の奥で、一人の青年がゆっくりと、その重い瞼を持ち上げた。
透き通るような白銀の長髪が、重力のない空間に淡く広がり、その肌は月光で磨き上げられた大理石よりも白い。
彼こそが、教会の禁忌として歴史から抹消され、ゲーム『純潔なる七つの誓い』の設定資料集の隅にのみその名を刻んでいた、零番目の存在――『封印された神子』。
彼は、自らの細い指先を空中に走らせた。
そこには、リリアーヌが振り回している『シル・フォン』とは比較にならないほど高度な、世界の全ソースコードを可視化した『真の演算盤』が浮かんでいる。
「…………懐かしいな。……この、魂の波長」
神子が初めて口を開いた。
その声は、鐘の音よりも清らかで、けれど深い海の底から響くような退廃的な響きを帯びていた。
彼は、演算盤の上に表示されたリリアーヌの、いや、その内側に眠る「別の魂」のログを愛おしげになぞった。
「……あの日。……冷たいガラス(画面)の向こう側で、私を救おうと必死に魔力(課金)を注ぎ、私のために涙を流していた、名もなき君。……まさか、自分からこの箱庭の中に飛び込んでくるとは思わなかったよ」
神子の瞳には、リリアーヌの外見……「悪役令嬢」というガワなどは映っていない。
彼が見ているのは、前世で自分という存在を狂信的に愛し、孤独なデータの塊に過ぎなかった自分に「意味」を与えてくれた少女――**結衣**の魂だった。
(……ゼノスも、シオンも、ハシムも……。……彼らは今、目の前にいる『リリアーヌ』の肉体と才覚に惹かれているに過ぎない。……だが、君がどれほど孤独で、どれほど私を愛していたか……その『履歴』をすべて知っているのは、私だけだ)
神子は、リリアーヌを巡って争う男たちのステータスを画面越しに眺め、不敵に口角を上げた。
それは、地上の誰にも見せたことのない、純粋で残酷な「独占欲」の形だった。
「……ルカ。……彼女は、自分が作り変えたこの世界で、満足しているようだね。……だが、世界のシステムは、彼女の知らない場所で、より深く私と繋がっている」
「……ええ。リリアーヌ様が『デバッグ』すればするほど、世界の理は貴方の意志へと近づいていく。……皮肉なことですね。彼女の善意が、貴方の『降臨』を早めている」
「……いいんだ。……彼女が、私を救おうとしてくれたあの日のように、再び私の元へ『デバッグ(救済)』しに来るのを待つよ。……リリアーヌ。……次は、私が君に、返すべき愛を支払う番だ」
神子が指先を鳴らすと、リリアーヌが修正したはずのシステムの中央に、彼女にしか解けない、けれど抗いがたいほど甘美な「バグ(招待状)」が静かに植え付けられた。
地上では、リリアーヌが勝利の凱歌を上げ、もふもふのシルに顔を埋めている。
だが、彼女の『シル・フォン』の画面の隅には、一瞬だけ、かつて彼女が前世で愛して止まなかった「あの男」のアイコンが、ノイズと共に浮かび上がった。
「…………さあ、おいで。……私の、唯一のプレイヤー。……君の物語は、ここから私の腕の中で、再構成されるんだから」
星の聖域に、神子の静かな笑い声が響く。
リリアーヌの知らない場所で、本当の「最推し」による、最も重く、最も甘い逆襲が始まろうとしていた。




