第69話(前編):精神の深層――ルカの囁きと、偽りの救済
真っ白な、果てのない虚無の空間。
現実世界の大聖堂の崩壊音も、ゼノスの氷が割れる音も、シオンの影が蠢く気配も、ここには一切届かない。
ただ、冷たく、電子のノイズのような微かな共鳴音だけが、絶えず足元から響き渡っている。
私は、その中心で膝を抱えて震えている小さな少女――幼い頃のアリア様へと、一歩を踏み出した。
「……アリアちゃん。……迎えに来ましたわよ」
私の声は、この静寂すぎる世界では驚くほど大きく響いた。
だが、少女は顔を上げない。彼女の細い手首には、現実世界のものよりも太く、禍々しい「黒い数式(鎖)」が幾重にも巻き付いており、それが彼女の魂を地面へと縫い止めていた。
「……無駄ですよ、リリアーヌ様。……この子は、もう『神の理』の一部。……貴女の持ち込んだ、安っぽい便利さや、偽りの幸福では、この子の魂に刻まれた『絶望』を拭い去ることはできない」
不意に、アリア様の背後の闇が凝縮し、純白の法衣を纏ったルカ枢機卿の幻影が姿を現した。
彼の蜂蜜色の瞳は、精神世界という「思考が剥き出しになる場」において、より一層深く、抗いがたい魅惑を放っている。
「……ルカ様。……他人の心の中にまで勝手についてくるなんて、随分と暇なんですのね? ……それとも、私にBAN(追放)されたのが、そんなに寂しかったのかしら?」
「……フフ、相変わらず手厳しい。……ですが、見てごらんなさい。……この子がなぜ、自ら私の『鎖』を選んだのかを」
ルカが指を鳴らすと、周囲の白い壁に、アリア様の過去の記憶が走馬灯のように映し出された。
泥水を啜り、民衆に石を投げられ、それでも「聖女」という役割に縋らなければ、一瞬で消えてしまうほどに脆かった、孤独な少女の記録。
「……彼女は知っているのです。……自分が『聖女』という機能を失えば、誰からも愛されず、再びあの泥の中へ戻るしかないことを。……貴女が彼女に向ける愛も、結局は『便利な聖女』というブランドに対する、所有欲に過ぎないのではないですか?」
ルカの一言が、私の心臓を鋭く突き刺した。
彼はゆっくりと私に歩み寄り、私の耳元で、甘く、毒を含んだ声で囁き続ける。
「……リリアーヌ様。……貴女の愛は、ただの『傲慢なエゴ』だ。……貴女はこの子の幸せを願っているのではなく、自分の理想とする『推し』を、自分好みの箱庭に飾りたいだけではないか? ……この子を自由にするということは、貴女の管理下から解き放つということだ。……貴女に、その覚悟がおありですか?」
(……ルカ。……貴方の言うことは、半分は正解だわ。……私はオタクで、アリアちゃんを私の理想の聖女として、最高に輝かせたいと願っている。……それが、私の『エゴ』であることは否定しないわ)
私は、震える拳を握り締め、ルカを真っ向から睨み据えた。
「……ええ、その通りですわ。……私の愛は、傲慢で、勝手で、底知れぬ独占欲に満ちた『エゴ』そのものです。……でも、それが何だというのです?」
「……おや?」
「……『神の理』だか『世界の延命』だか知りませんが、貴方たちが強いているのは、愛ですらなく、ただの『搾取』ではありませんこと? ……自己犠牲の上に成り立つ平和なんて、そんなの、私の設計図には一文字も入っていませんわ!」
私は、黄金の『シル・フォン』を天高く掲げた。
精神世界において、私の「意志」は、そのまま世界を書き換える「力」となる。
「……ルカ様。……貴方が『偽りの救済』を説くのなら、私は『最高の絶望』を、希望という名に書き換えて差し上げますわ! ……アリアちゃんを泥の中へ戻したくない? ……笑わせないで。……私が、この国を……いえ、この世界そのものを、彼女が一生泥を触らずに済むほどの『黄金の楽園』に作り替えてあげれば済む話でしょう!?」
私の全身から、黄金の魔力が溢れ出し、ルカが構築した「絶望の檻」を物理的に削り取り始めた。
「……私は、アリアちゃんに『自由』をあげたいのではありません。……『私と一緒に、世界一楽しい贅沢を謳歌する権利』を、強制的に付与しに来たのですわ! ……文句がありますの!?」
私の高慢な宣言に、ルカの余裕の微笑みが僅かに引き攣った。
「……ククッ、……はははは! ……どこまでも不遜だ、リリアーヌ・アステリア! ……神の理さえも、自分の『推し活環境』の一部として見なすとは……!」
「当然ですわ! ……さあ、アリアちゃん、顔を上げなさい! ……貴女を縛るこの『バグだらけの誓約』、今すぐ一文字残らずデリート(削除)して差し上げますわよ!!」
私はアリア様の元へ駆け寄り、彼女の手首に巻き付いた「黒い数式」に、黄金のペンを突き立てた。
精神世界が、凄まじい衝撃と共にひび割れ、崩壊を始める。
悪役令嬢の暴走する愛が、教会の数千年の歴史を刻んだ「世界の理」を、根こそぎ上書きしようとしていた。




