第61話(前編):喪失の静寂、氷の公爵の決断
王都『セント・ルミナス』のバルコニーに残されたのは、耳を刺すような静寂と、アリア様が身に纏っていた聖女の衣から零れ落ちた、白銀の糸の残骸だけだった。
数分前まで民衆の歓喜で震えていた空気は、ルカ枢機卿が放った不浄な光によって一瞬で凍りつき、今はただ、重苦しい「喪失」の色に塗りつぶされている。
「…………。……そう。……連れ去ったのね、あの男が」
私は、手すりに残された指先の跡を見つめた。
怒り。……いいえ、そんな生温い言葉では言い表せない。
私の心臓の奥底で、前世から積み上げてきた『推し』への情熱が、ドロドロとした黒い炎となって噴き出し、脳内の全演算回路を「奪還」と「破壊」の二文字で埋め尽くしていた。
「……お、お嬢様……。……申し訳ございません。……私の影が、あのような不浄な光に一瞬でも遅れを取るなど……。……今すぐ、私の心臓を抉り出し、お嬢様の靴の汚れとして捧げますので、どうか……どうか、そのように冷たい瞳で見ないでください……!」
私の足元で、シオンが狂乱したように頭を垂れていた。
彼の周囲の影は、制御を失った獣のように激しく波打ち、バルコニーの石材をミシミシと粉砕している。シオンにとって、アリアの喪失よりも、それによってお嬢様の心が傷ついたこと、そして自分が「完璧な盾」になれなかったことが、死よりも耐えがたい屈辱なのだ。
「立ちなさい、シオン。……貴方の命をそんなことに使う暇があるなら、一秒でも早く、あのアナログな祭壇の場所を特定なさい。……私のネットワークを逆手に取った報い、通信制限(圏外)どころでは済ませませんわよ」
「…………っ。……御意。……お嬢様の仰せのままに」
シオンが影の中に溶けるように消えた、その時。
背後から、氷点下の冷気を纏った足音が近づいてきた。
「……リリアーヌ。……怪我はないか」
現れたのは、ゼノス公爵だった。
彼は、連れ去られた聖女アリアの行方を案じるよりも先に、私の肩を抱き寄せ、その瞳で私の全身をくまなく走査した。
「……閣下。……アリア様が、連れ去られましたわ。……貴方の守るべき、この国の希望が」
「……あんなものは、どうでもいい」
ゼノスの口から漏れたのは、一国の軍司令官として、そして原作のメインヒーローとしては絶対にあってはならない、冷酷な一言だった。
彼は私の頬に手を添え、その青い瞳に、私一人の姿を執拗なまでに映し出した。
「……リリアーヌ。……君が泣く必要はない。……君を悲しませる者が神であろうと、教会であろうと……私がこの手で、そのすべてを凍土の底へ沈めてやる。……私が求めているのは、聖女の光ではない。……君の、その不敵な微笑みだけだ」
(……ゼノス様。……貴方、本当に……。……原作『純七』では、貴方はアリアちゃんが連れ去られた時、自分の無力さを嘆いて雨の中で叫ぶはずだったのに。……今の貴方は、私を失うことだけを恐れているのね……)
ゼノスは、懐から帝国の全軍に宛てた『至急電』の魔導端末を取り出し、迷いなく認証コードを打ち込んだ。
「……これより、魔法帝国ガルディナは教会に対し、全戦力をもって宣戦を布告する。……目的は、アステリア特別区顧問、リリアーヌ・アステリアの『平穏』を害した罪の清算だ」
「……閣下、それはやりすぎではありませんこと?」
「……足りないくらいだ。……リリアーヌ。……君を、あのルカという男の目に一秒たりとも触れさせたくない。……あいつが君に囁いた言葉、そのすべてを、この手で無効化してやろう」
ゼノスの執着は、もはや理性の範疇を超えていた。
彼は、かつて自分が信じていた「正義」や「運命」を自らへし折り、私のために狂うことを選んだのだ。
「……いいでしょう。……ならば、始めましょうか、閣下。……教会の『聖域』を、私の技術で更地へと書き換える……。……最悪で最高の、奪還作戦を!」
私は、ゼノスの手を握り返し、懐から純金製の『シル・フォン』を取り出した。
指先一つで、私は王都全域、そして帝国全土の全通信網を強制的にジャックした。
「――教会の皆様。……そして、ルカ枢機卿。……よくお聞きになって」
王都の夜空に、私の怒りに燃える顔が巨大なホログラムとなって浮かび上がる。
「……一時間以内にアリア様を解放しなさい。……さもなくば、貴方たちの『聖域』を、私の魔導理論で根こそぎ『物理消去』して差し上げますわ! ……ほほほほほ!」
私の高らかな宣戦布告。
それは、便利さのために作ったネットワークが、世界最強の「拡声器」へと変わった瞬間だった。
地上からは、民衆のどよめきと、それに呼応するように集結し始めたハシムの黄金艦隊の駆動音が響いてくる。
リリアーヌの、知性と愛と狂気が入り混じった『進撃編』。
その幕開けは、一国の公爵が自らの魂を悪役令嬢に捧げるという、最も美しく残酷な決断と共に始まった。




