第59話:王都の隠れ家カフェ――お忍びデートと、シオンの尾行
連日の外交攻勢と、旧王国の再建事業。
魔導顧問としての重圧に、私の精神的な限界はとうに底を突いていた。
アリア様は新しい聖歌のレッスンに励み、シルは王城の庭園で噴水の水を浴びて微睡んでいる。……今こそ、千載一遇のチャンス。
「……今日こそ、私は『自由』を勝ち取りますわよ!」
私は自室の鏡の前で、魔導具の指輪を操作した。
眩い光と共に、私のプラチナブロンドの髪は落ち着いた栗色に変わり、瞳の色もエメラルドからごくありふれた琥珀色へと上書きされる。さらに、知的な印象を与える銀縁の眼鏡をかけ、動きやすい町娘風のワンピースに身を包めば、どこから見ても「少し育ちの良い商家の娘」の完成だ。
(……ふふふ。……完璧。……シオンには『集中して設計図を引くから、三時間は扉を開けないで』と厳命してあるわ。……ゼノス閣下も公務で忙しいはず。……いざ、私がプロデュースした秘密の聖域へ!)
私は隠し通路を通り、軽やかな足取りで王都の路地裏へと滑り出した。
向かう先は、王都の北区、人通りの少ない路地の奥にひっそりと佇む一軒の店。
看板には、精緻な彫刻で『喫茶・白銀の翼』と刻まれている。……そう、私が前世の「オシャレカフェ」を魔導技術で完全再現した、究極の隠れ家だ。
カラン、とドアベルが鳴る。
店内には、私が開発した『魔導エアコン』が最適な湿度と温度を保ち、焙煎されたばかりのコーヒー豆の芳醇な香りが満ちていた。
モダンな木製のカウンターに、座り心地を追求したベルベットのソファ。……ここには、執事の重すぎる愛も、公爵の鋭い視線も存在しない。
「……いらっしゃいませ、お客様。……お好きな席へどうぞ」
私が直接教育した店員(元・没落貴族の令嬢で、接客の天才)が、優雅に微笑む。
私は一番奥の、窓から差し込む木漏れ日が美しい特等席に座り、メニューを開いた。
「……本日の新作、『魔導冷却フローズン・パフェ』と、深煎りのブレンドをお願いしますわ」
運ばれてきたのは、宝石のようにカッティングされた果実が積み上げられ、魔導で瞬間冷凍された「シャリシャリ」の食感が楽しめる究極のスイーツ。
一口運べば、濃厚なクリームの甘みと果実の酸味が、過労で乾いた脳に染み渡っていく。
(……これよ。……これなのよ! ……この現代的な静寂。……一人の時間を楽しむ贅沢。……悪役令嬢に転生して一番欲しかったのは、この『自分だけの聖域』だったのかもしれないわ……)
私が恍惚とした表情でパフェを堪能していた、その時。
カラン、と。
再びドアベルが鳴り、一人の長身の男が入ってきた。
黒いハットを深く被り、地味な茶色のコートを羽織っているが……その歩き方の優雅さと、服の上からでも分かる鍛え抜かれた体躯は、到底「庶民」には見えない。
「……空いているかね。……相席を頼みたい」
その男は、あろうことか私の向かい側の席に、迷いなく腰を下ろした。
ハットを僅かに持ち上げたその下から覗いたのは、絶対零度の冷徹さを秘めた、けれど今はどこか愉しげに細められた青い瞳。
「…………ぜ、ゼノス閣下!? なぜここに!」
「……人違いではないか? 私はただの通りすがりの『愛書家』だ。……リリアーヌ……いや、琥珀色の瞳の令嬢よ。……この店のコーヒーは、私が知っている『ある女性』が淹れるものと、驚くほど香りが似ている」
(……バレバレだわ! ……その完璧な発声、隠しきれない覇気! ……公爵様、お忍びの変装が下手すぎますわよ!)
ゼノスは不器用にコーヒーを啜りながら、じっと私の顔を覗き込んできた。
眼鏡の奥の私の瞳を射抜くような視線。……至近距離で対峙する「オフ」の公爵は、いつもよりずっと甘く、危険な香りがした。
「……君がここにいるということは、監視の厳しい『あの執事』の目を盗んできたということか。……ふん。……いい度胸だ。……ご褒美に、今夜はこのまま私がエスコートして、夜の王都を案内してやろう」
「……お断りしますわ。……私は一人で……」
その瞬間。
店内の影が、物理的な重みを伴って、不自然にゆらりと膨れ上がった。
隣のテーブルで、新聞を広げていた一人の客が、手に持っていたフォークを「メキメキ」と飴細工のように折り曲げた。
「…………。…………。……お楽しみのところ、非常に、非常に、申し上げにくいのですが」
新聞がゆっくりと下げられ、そこから現れたのは、真っ黒なサングラスをかけ、顔色一つ変えずに殺気を放つシオンだった。
「……お嬢様。……三時間は扉を開けるな、という命令は、あくまで『お嬢様が部屋にいる場合』に限定されると解釈しました。……お嬢様の外出を影が感知した瞬間、私の心臓がどれほど凍りついたか……。……それなのに、あろうことかこの『氷の公爵』と密会なさっているとは……」
「……シ、シオン!? 貴方まで尾行していたの!?」
「……尾行? 失礼な。……私はお嬢様の『影』そのものです。……お嬢様がパフェの三口目を食べた際、僅かに右の頬にクリームが付いたことも、すべて把握しておりますよ」
シオンは立ち上がると、私の隣に座り、ハンカチで私の頬を執拗なほど丁寧に拭い始めた。
「……さあ、帰りましょうか、お嬢様。……この店ごと影に沈めて、お嬢様の『秘密』を物理的に消去してもよろしいのですが」
「……やめなさい! ……ここは私が苦労して作った店なのよ!」
結局、お忍びの静寂は一瞬にして崩壊し、私は右に独占欲の塊のような執事、前に不敵に微笑む公爵という、いつもの修羅場に挟まれることになった。
「キュアァッ!」
さらに、窓を突き破るように小型化したシルが乱入し、私の膝の上に飛び乗ってきた。
シルは私のパフェの残りをペロリと平らげ、満足げに喉を鳴らしている。
「……はぁ。……結局、こうなるのね。……私のスローライフ、どこへ行ったのかしら」
私は頭を抱えつつも、運ばれてきた追加のパフェを(三人の視線を受けながら)口にした。
甘い冷たさが広がる中、店員から一通のカードが手渡された。
『リリアーヌ様。……このお店の隠し味、少しばかり「信仰」が足りないようです。……近々、最高の隠し味をお届けしましょう。……枢機卿ルカより』
カードは読んだ瞬間に白い灰となって消えた。
私の安らぎの聖域にまで届く、不穏な影。
(……ルカ。……貴方だけは、出禁確定ですわよ!)
私は、シオンの伸ばしてきた手を叩き落としつつ、次なる防衛インフラ『対・枢機卿用・精神防壁サーバー』の構築を心に誓うのだった。




