第49話:再会と断絶――アステリア公爵(父)との対峙
王城の地下深く。
陽の光も、贅沢な魔導の温もりも届かないその場所は、かつて私が「罪人」として数日間を過ごした、冷たく湿った牢獄だった。
石造りの壁からは絶えず水が滴り、その音だけが、時が止まったかのような静寂の中に響き渡っている。カビと鉄の錆びた臭いが混じり合い、肺を刺すような冷気が立ち込めるこの空間は、まさに「捨てられた者」たちの終着駅だった。
私は、シオンが私の足元を汚さないように広げた影の絨毯の上を、音もなく歩んでいた。
私の左右には、暗闇を切り裂くような冷徹な眼差しを湛えたゼノス公爵と、もはや殺気を隠そうともせず、周囲の影を物理的にうねらせているシオンが控えている。
そして、その最奥。
錆びついた鉄格子の向こう側、泥と汚水にまみれた床に、一人の男が縋り付くように座り込んでいた。
「……リ、リリアーヌ……。……リリアーヌなのか……っ!」
その声には、かつての威厳など微塵も残っていなかった。
アステリア公爵。……私の実の父であり、この国で最も権勢を誇った貴族の一人。
だが、今そこにいるのは、乱れた白髪に汚れきった貴族服を纏い、瞳に絶望と卑しい期待を混濁させた、ただの老いさらばえた罪人だった。
彼が鉄格子に指をかけ、ガタガタと音を立てて身を乗り出す。その指先は泥に汚れ、かつての「公爵家の誇り」を誇示していた紋章入りの指輪は、既に誰かに奪われたのか、無残な傷だけが残っていた。
「……お久しぶりですわ、父様。……随分とお寂しい住まいに移られたようですけれど?」
私は、シオンから手渡された扇子を優雅に広げ、鉄格子の数歩手前で足を止めた。
(……アステリア公爵。……ゲーム『純七』では、リリアーヌが断罪された際、真っ先に彼女を勘当し、処刑台への署名を行った冷酷な男。……彼にとって家族とは、家名を飾るための道具に過ぎなかった)
「……ああ、リリアーヌ! よくぞ、よくぞ来てくれた! ……信じていたぞ、お前なら必ず、この苦境を乗り越えて戻ってくると! ……さあ、今すぐこの忌々しい格子を開けさせなさい! 私はお前の父だ、アステリア家の家主だぞ!」
父の言葉に、私は思わず、心の底から乾いた笑みを漏らした。
「……信じていた? ……可笑しなことを仰いますのね。……私が、この冷たい床に跪かされ、冷たい食事と罵倒を与えられていたあの夜。……父様、貴方は温かい暖炉の前で、エドワード様と私の『処分』について談笑していらしたではありませんか」
「……そ、それは、誤解だ! すべては王家への忠誠を装うための芝居……」
「……黙れ、不浄の者が」
シオンの声が、地を這うような重低音となって地下牢に響き渡った。
彼の背後から、無数の影の触手が爆発するように伸び、鉄格子を、そしてその向こう側の父を、押し潰さんばかりに包囲する。シオンの瞳は、どろりとした漆黒の狂気を湛え、その殺圧だけで地下の滴る水さえもが凍りついたかのようだった。
「……お嬢様。……覚えていますか? この男が、お嬢様が幼い頃に書かれた『父への手紙』を、一瞥もせず暖炉に投げ捨てた日のことを。……私は、影の中からそれを見つめ、いつかこの男の心臓を影で抉り出す日を、指折り数えて待っていたのですよ」
シオンが一歩、また一歩と鉄格子へ歩み寄る。
彼の影が、父の喉元を物理的に締め上げ、その呼吸を奪う。
「……貴方がお嬢様に与えたのは、絶望と孤独だけだ。……今さら『家族』という言葉を口にするその舌。……根元から影で腐らせ、二度と音を立てられないようにして差し上げましょうか?」
「……ひ、ひぃぃっ!? た、助けてくれ、リリアーヌ! この執事は狂っている!」
「……狂わせたのは、貴方たちではありませんこと?」
私は冷ややかに言い放ち、懐から『シル・フォン』の鑑定ユニットを取り出した。
魔導の光が父の顔を照らし出す。それは嘘を暴き、魂の醜さを数値化する、私が開発した非情なる「鏡」だ。
「……父様。……貴方の言葉には、愛情など一欠片も含まれておりませんわ。……出力されているのは、保身が九割、そして私を利用して再び権力の座に返り咲こうという浅ましい欲求が十割。……私の演算回路を汚すほどの、最低の数値ですわね」
父の顔が、驚愕と絶望に歪む。
「……リリアーヌ……。お前、その力……。……ああ、わかった! その魔導の力で、アステリア家を再興しろ! 帝国と手を組み、この国を……いや、私を王に据えることもできるはずだ! 私はお前の親だぞ、親の頼みが聞けないのか!」
「……親、ですか。……残念ながら、今の私には、守るべき家族は他に居りますの」
私がそう告げた瞬間、ゼノス公爵が、私の肩を強く、抱き寄せた。
彼の纏う冷徹な魔力が、父の卑しい言葉を物理的に遮断するように広間を圧する。
「……アステリア公爵。……無駄な足掻きはやめろ。……リリアーヌは既に、我が帝国の最高位賓客であり、私の……公爵夫人となるべき女だ。……君のような枯れ木が、彼女の『家族』を名乗るなど、我がガルディナ帝国への宣戦布告と見なすが?」
ゼノスが、懐から一通の書面を取り出した。
それは、帝国の皇帝印が押された、リリアーヌの『身分剥奪および再定義』の公式文書。
「……これをもって、リリアーヌとお前の血縁関係は、法的に、そして魔導的に断絶された。……彼女はもうアステリアの人間ではない。……お前が縋るべき『娘』は、もうこの世界のどこにも存在しないのだ」
父は、その文書を見た瞬間、すべての力が抜けたように、膝から崩れ落ちた。
「……ああ……。……ああああ……っ!」
地下牢に響き渡る、魂が砕けたような男の叫び。
かつて、自分の娘を道具として捨てた男が、最後に手にしたのは、自分の名前さえも他人に奪われたという、究極の「虚無」だった。
(……ふぅ。……これで、私の過去に繋がる最後の一本が、完全に断ち切られたわね。……悲しみも、怒りも、もう何も湧いてこない。……あるのは、この冷たい場所から早く離れて、シルのもふもふに癒やされたいという、切実な欲望だけだわ)
「……行きましょう、閣下。シオン。……ここは、もう私の居場所ではありませんもの。……あ、シオン。……父様には、開拓地の『最前線』での重労働を用意して差し上げて。……公爵家の誇り高い筋肉が、どれほど役に立つか試してみたいですわ」
「……御意、お嬢様。……地獄の果てまで、彼を影で監視し続けましょう。……お嬢様の受けた痛みの、数万倍の絶望を、毎日小出しにして味わわせて差し上げます」
私は一度も振り返ることなく、暗い地下牢を後にした。
背後で響き続ける父の絶望的な叫びは、重厚な鉄の扉が閉まる音と共に、永遠に遮断された。
地上に出ると、夜風が火照った頬を優しく撫でた。
空には、帝国の浮遊船が力強く輝いている。
私は、シオンとゼノスの間に立ち、かつての自分の「家」であった燃える城を見上げた。
「……さあ、新しい時代の幕開けですわ。……アリア様を呼んできて。……これからは、私たちの自由な、もふもふに満ちた世界を作るのですから!」
悪役令嬢としての決別。
それは、真の「幸福」を手に入れるための、最も残酷で清々しい儀式だった。




