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第44話:暗躍する『枢機卿』――七つの誓いの影

 聖域の森がシルの浄化によって息を吹き返してから数日。

 旧王国の民衆の間では「帝国から舞い戻った悪役令嬢が、本物の守護獣を連れて国を救いに来た」という噂が、希望という名の毒となって急速に広まっていた。

 

 私は、浮遊船の豪華なサロンで、ゼノス公爵が用意してくれた帝国の最新情報をまとめた報告書に目を通していた。

 隣には、シオンが淹れてくれた、心臓の鼓動を落ち着かせる効果のあるカモミールティー。


「……お嬢様。……先ほどから、あのアラビアンな商人から届いた金貨が、不気味に震えています。……さらに、教会の紋章を刻んだ、何とも鼻に付く香水の香りがする書状も届いておりますが……」


 シオンが、汚物でも触るかのように銀のトレイに乗せた一通の手紙を差し出してきた。

 封蝋ふうろうには、旧王国の国教である『光の天秤』――その最高位を示す枢機卿の印章。


(……来たわね。教会の若き枢機卿ルカ。……原作『純七』では、アリアちゃんを『神の器』として監禁し、その魔力を吸い取って世界の理を書き換えようとした、最も美しく、最も残酷な攻略対象……!)


 私は手紙を開いた。

 流麗な筆致で書かれていたのは、社交辞令を並べ立てた末の、傲慢な呼び出しだった。


『……親愛なるリリアーヌ・アステリア様。貴女が起こした奇跡に、神も祝福を贈っておいでです。……今夜、かつて貴女が祈りを捧げた大聖堂の地下礼拝堂にて、内密にお話ししたいことがございます。……アリアという「聖なる器」の、真の使い道について』


「……不快な男だな。……アリア殿を道具のように呼ぶとは」


 ゼノス公爵が、私の背後から手紙を覗き込み、氷のような冷徹な声を放った。

 彼の『解析眼』には、手紙に仕込まれた「微弱な魅了の呪い」が見えているのだろう。ゼノスが軽く指を鳴らすと、手紙に宿っていた不浄な魔力が霧散した。


「……リリアーヌ。……罠であることは明白だ。……私が行って、その礼拝堂ごと凍りつかせてやろうか?」


「……いいえ、閣下。……相手は教会の実権を握る男ですわ。……ここで無視をすれば、彼らはアリア様を『魔女』に仕立て上げ、民衆の心を再び闇に落とそうとするでしょう。……私が直接、引導を渡して差し上げますわ」


 私は立ち上がり、シオンに向き直った。


「シオン。……貴方は私の影に潜んでいなさい。……合図があるまで、決して姿を見せないこと。……いいかしら?」


「……御意。……お嬢様の美しいお体に、あのような生臭い男の指一本触れさせはしません。……もし彼が不穏な動きを見せれば、その魂を影の底で千々に引き裂いて差し上げます」


 夜の王都。

 月光に照らされた大聖堂は、かつての神々しさを失い、どこか墓標のような冷たさを湛えていた。

 私は一人、地下礼拝堂へと続く階段を降りた。

 

 薄暗い空間。

 揺らめく蝋燭の火の向こうに、一人の青年が立っていた。

 透き通るような銀髪を背中まで流し、純白の法衣を纏った姿は、まるで絵画から抜け出してきた天使のようだ。……だが、その黄金の瞳の奥には、一切の慈悲が存在しない。


「……ようこそ、リリアーヌ様。……追放された令嬢が、これほど美しく、力強く戻ってくるとは。……神の計画も、時には粋な演出をなさる」


 ルカ枢機卿が、優雅に頭を垂れた。

 その声は、聴く者の心を惑わせるような、甘く、低い響き。


「……挨拶は抜きにしましょう、ルカ枢機卿。……アリア様について、何を企んでいらして?」


「……企む? 人聞きの悪い。……私はただ、彼女という『最高の素材』を、本来あるべき場所に収めたいだけですよ。……彼女の魔力は、この世界の寿命を延命させるための『にえ』。……貴女が彼女を帝国に連れ去ったせいで、世界の歯車が狂い始めているのです」


 ルカが一歩、また一歩と私に歩み寄る。

 彼の周囲には、教会の秘術によって編み上げられた、目に見えないほど細い『七つの誓約』の鎖が漂っている。


(……出たわ。教会の勝手な理屈。……アリアちゃんを世界の犠牲にするなんて、私が許すはずがないじゃない!)


「……贄、ですか。……随分と古臭い教義をお持ちですわね。……アリア様は道具ではありません。……彼女は、自らの意思で歌い、自らの意思で世界を癒やす存在ですわ。……貴方のような、神のふりをした臆病者に渡すわけにはいきません」


「……ふふ、やはり貴女は面白い。……アリア以上に、貴女のその『異界の知恵』……。それこそが、神が求めていた新たな真理なのかもしれない」


 ルカの手が、私の頬に伸びてきた。

 その瞬間、礼拝堂の影が爆発するように膨れ上がり、ルカの手首を鋭い刃となって遮った。


「……お嬢様に触れるな、不浄の徒」


 シオンが影の中から姿を現し、ルカの喉元に暗器を突きつけた。

 同時に、天井のステンドグラスを突き破るように、ゼノス公爵の氷の槍が降り注ぎ、ルカの周囲を完璧に封鎖した。


「……リリアーヌ。……話は十分だろう。……この男をここで消し、教会の腐敗を根こそぎ掃除する頃合いだ」


 ゼノスが、冷徹な殺意を纏って降臨する。

 

 だが、ルカは二人の最強の男たちに囲まれながらも、微塵も動じず、愉快そうに笑った。


「……素晴らしい。……帝国の公爵と、闇の処刑人。……そして、運命を狂わせる悪役令嬢。……これほどの駒が揃うとは。……リリアーヌ様、貴女に一つの『予言』を差し上げましょう」


 ルカの瞳が、黄金色から血のような赤へと変色した。


「……貴女が愛するあの聖女は、間もなく『天の声』を聞く。……その時、貴女がどれほど抗おうと、彼女は自ら私の元へ歩み寄るでしょう。……七つの誓いの最後の一つが、貴女を絶望に突き落とすその日まで」


 ルカの姿が、光の粒子となって霧散した。

 

「……逃げたか。……幻影魔法の極致だな。……不愉快な男だ」


 ゼノスが苦々しく吐き捨てる。

 

(……予言……。……原作にはない展開だわ。……でも、アリアちゃんを渡すつもりなんて、一ミリもありませんわよ!)


 私は、シオンの差し出した手を握り、力強く立ち上がった。

 

 旧王国の凋落。

 騎士団長の屈服。

 そして、教会の宣戦布告。

 

 私の物語は、個人の復讐劇を超え、この世界の存亡を賭けた、壮大なチェスゲームへと変貌しようとしていた。


「……シオン、ゼノス閣下。……準備を急ぎましょう。……あの枢機卿が、アリア様の髪一筋にさえ触れられないよう、私たちがこの国を、完全に『書き換えて』あげるのですわ!」


 私は大聖堂の地下を後にし、夜空に浮かぶ自分たちの浮遊船を見上げた。

 

 悪役令嬢としての、真の戦いは、ここからが本番だった。


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