第43話:もふもふの里帰り――シルの大掃除
旧王国の北端に位置する『聖域の森』。
かつては精霊たちが集い、清らかな魔力が泉のように湧き出していたその場所は、今や見る影もなかった。
エドワード王子たちの乱掘によって地脈は傷つき、空気は澱んだ灰色の霧に包まれている。立ち枯れた巨木たちが、まるで苦痛に悶える亡者のように枝を広げていた。
「……ひどいわ。呼吸をするだけで、肺が煤けるような感覚ですわね」
私は、ゼノス公爵が展開した魔導障壁の中で、眉をひそめた。
足元の土はひび割れ、生命の拍動が全く聞こえない。
(ゲーム『純七』の設定では、この森が死ぬことは『王国の滅亡』と直結していた。……攻略対象たちがこの異変を止めるために奔走するのが中盤の山場だったけれど、今のこの惨状は、誰の手にも負えないレベルまで進行しているわね)
だが、私の隣に座る「白銀の山」だけは、違った。
完全体へと覚醒した聖獣シルが、不快そうに鼻を鳴らし、金色の瞳を鋭く光らせる。
「キュ、キュアァ……」
シルは私の手のひらに、その巨大な頭をそっと擦り寄せた。
まるで「僕が、お嬢様の歩く道を綺麗にしてあげる」とでも言いたげな、深い慈愛に満ちた仕草だ。
「ええ、お願いね、シル。……貴方の故郷を、貴方の愛した景色を、取り戻して差し上げて」
私がシルの項にある、最高級のシルクを凌ぐ柔らかい毛並みを優しく撫で、送り出す。
シルが、一歩前へ踏み出した。
その瞬間、彼を覆っていた白銀の毛が一斉に逆立ち、内側から溢れ出す膨大な光の魔力が、周囲の灰色の霧を物理的に押し流した。
「……なっ!? この魔力圧……。……リリアーヌ、君の聖獣は、一体どれほどの力を秘めているんだ」
ゼノスが『解析眼』を最大限に稼働させながら、驚愕の声を上げた。
彼の目には、シルの周囲で世界の理が書き換えられていく様子が見えているのだろう。
シルが天を仰ぎ、これまでにないほど力強く、神聖な咆哮を上げた。
――ガォォォォォォン!!!
その声は、物理的な音波を超え、旧王国の全土に響き渡るほどの魂の共鳴となって広がった。
直後、どんよりとした暗雲が渦を巻き、一点から黄金の光が差し込む。
そして、雨が降り始めた。
それはただの雨ではなかった。
一滴一滴が、シルの放つ浄化の魔力を帯びた「光の雫」。
雨が大地に染み込むたび、ひび割れた土が潤いを取り戻し、黒ずんでいた木の幹から、奇跡のように瑞々しい緑の新芽が芽吹き始めた。
「……ああ、雨だ。……暖かい、光の雨だわ……!」
アリア様が、魔導障壁の外へ飛び出し、両手を広げてその雨を受け止めた。
彼女の聖女としての力がシルの浄化と共鳴し、森のあちこちから、眠っていた精霊たちが光の蝶となって舞い上がる。
(……絶景だわ。前世の映画でも、こんなに美しい再生のシーンは見たことがない。……シル、貴方って本当にかっこいいわ。抱きつきたい。今すぐその巨大な胸毛に顔を埋めて、この奇跡の余韻に浸りたい……!)
内面の熱狂を必死に抑えつつ、私はレオニダスの方へ視線を向けた。
彼は、自らの剣を杖代わりに、雨に打たれながら呆然と立ち尽くしていた。
「……これが、真の守護獣の力か。……我々が必死に守ろうとして、結果として壊してしまったこの大地を、これほど容易く……」
「……容易くなどありませんわ、レオニダス卿。……この子は、私の愛と、アリア様の祈りに応えて、その命の輝きを分け与えているのです。……形だけの正義に固執した貴方たちには、一生かかっても起こせなかった奇跡ですわ」
私は冷ややかに言い放ち、雨の中で次第に元のサイズへと戻っていくシルの元へ駆け寄った。
大きな仕事を終えたシルは、少しだけ疲れを見せつつも、私を見て「ふんっ」と満足げに鼻を鳴らす。
「お疲れ様、シル。……最高よ。貴方のその頑張り、今夜はとびきりのお肉と、特製の魔導ブラシで全身三時間のフルコース・ブラッシングを約束してあげるわ!」
「キュ、キュゥゥン!」
シルが嬉しそうに私の胸元に顔を埋める。
その重み。その温もり。
「……お嬢様。……その獣への寵愛、少し度が過ぎませんか? ……私は雨の中でも、お嬢様のドレスを汚さないよう、こうして影を広げて待機しているのですが」
不機嫌そうに、けれど完璧な手際で私の足元を影で守っていたシオンが、嫉妬に満ちた視線をシルに向けていた。
「……シオン。貴方もご苦労様。……でも、今はシルの功績を称えてあげて。……見て、森が笑っているわ」
雨が上がり、雲の間から差し込む陽光が、再生を始めた森を宝石のように輝かせている。
かつての死の森は、今や世界で最も清浄な魔力に満ちた、リリアーヌの「私有地」としての産声を上げたのだ。
「……リリアーヌ。……この浄化のニュースが王都に届けば、エドワード王子の権威は完全に失墜するだろうな。……人々は、王子ではなく、君と聖獣こそが真の救世主だと確信するだろう」
ゼノスが、濡れた前髪を無造作にかき上げ、不敵な笑みを浮かべた。
(……ふふ。計画通りよ。……武力で制圧するよりも、圧倒的な『善』を見せつける方が、反論の余地を与えないもの)
私は、シルの柔らかい耳の付け根をこっそり揉みながら、遠くに見える王城のシルエットを見つめた。
旧王国の再建。
それは、失われたものを取り戻す作業ではない。
私が、私の望む形で、この国を「もふもふと推しの楽園」へと作り替える、壮大な創造の始まりなのだ。
「……さあ、帰りましょうか。……この森の香りを、アリアちゃんの新曲のインスピレーションにしなければなりませんもの!」
私は幸せそうに微笑むアリア様と、満足げな聖獣を連れて、浮遊船へと戻っていった。
背後で、立ち直れないほどの後悔に苛まれる騎士団長の姿を、一度も振り返ることなく。




