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第38話(後編):甘々プロポーズ vs 狂愛暴走

 月光に照らされたテラスの甘い沈黙は、物理的な「音」ではなく、精神を掻き毟るような「闇」によって引き裂かれた。

 

 ゼノス公爵の指先が、私の薬指にサファイアの指輪を滑り込ませようとした、その刹那。

 足元の影が、まるで生き物のように跳ね上がり、ゼノスの腕を鋭い爪となって切り裂こうと襲いかかった。


「……ちっ!」


 ゼノスが瞬時に氷の障壁を展開し、影の爪を弾き飛ばす。

 だが、攻撃は止まらない。周囲の影がうねり、渦を巻き、ついには離れのリビング全体を飲み込むほどの巨大な「奈落」となって具現化した。


「…………閣下。……お嬢様の神聖な指先に、その安物の石を嵌めようなど。……その慢心、万死に値しますね」


 影の底から現れたシオンの瞳には、もはや理性のかけらも残っていなかった。

 瞳孔は開ききり、どろりとした執着と、愛する者を奪われようとしている獣のような絶望だけが、漆黒の魔力となって全身から溢れ出している。


「シオン!? 貴方、いつからそこに……っ!」


「……最初からですよ、お嬢様。……お嬢様がこの男と語り合い、その鎖骨を恥ずかしそうに眺め、あろうことか唇を重ねようとした、その全秒間……私は影の中から、自分の心臓を握りつぶしながら見ていました」


 シオンが一歩踏み出すごとに、床の大理石がミシミシと影に侵食され、黒いヒビが入っていく。

 彼の背後からは、数千、数万という影の触手が、ゼノスを、そして私を包囲するように蠢き始めた。


(……アカン。これ、全年齢対象の乙女ゲーじゃなくて、ダークファンタジーのバッドエンド直前じゃない! シオンのヤンデレゲージが、物理法則を無視してオーバーフローしてるわ!)


「……執事。……分を弁えろと言ったはずだ。……リリアーヌを影の底に繋ぎ止め、彼女の才能を腐らせることが君の望みか?」


 ゼノスが冷徹な声を放ち、周囲の空気を一瞬で氷点下へと叩き落とす。

 テラスの柵が凍りつき、シオンの影と、ゼノスの氷が空中で激しくせめぎ合い、パキパキと不気味な破砕音を立てる。


「……才能? そんなものは、お嬢様を私から遠ざけるためのノイズに過ぎません。……お嬢様は、何もできなくていい。……私の腕の中で、私の名だけを呼び、私の与える愛だけで満たされていればいい。……公爵夫人などという窮屈な椅子に、あの方を座らせるわけにはいかないのです!」


 シオンが叫ぶ。その声は、泣いているようにも、笑っているようにも聞こえた。

 彼は影を操作し、強引に私の腰を引き寄せようとした。


「……壊してしまえば、誰にも渡さなくて済む。……お嬢様。……貴女のその美しい瞳を、今すぐ私の色で塗り潰して差し上げましょう。……そうすれば、貴女は永遠に、私だけのものだ……」


 シオンの指先が、私の首元にそっと触れる。

 冷たい。けれど、焼けるような熱量を帯びた、狂信的な愛の感触。


「……ふざけるな、執事! 彼女は、私の――!」


 ゼノスが最大級の氷の魔力を解放しようとした、その時。

 二人の魔力の衝突で、離れ全体が地震のように激しく揺れた。

 その衝撃で、隣の部屋で寝ていたはずの聖獣シルが「キュアァァァッ!?」と驚いたような悲鳴を上げ、アリア様が「リリアーヌ様!?」と不安げに叫ぶ声が聞こえてきた。


 その瞬間、私の中で、オタクとしての、そして一人の人間としての理性が、パチンと弾けた。


「……いい加減に、なさいっ!!!」


 私は、全力の魔力を込めて、二人の間に割って入った。

 

 ドォォォォォン!!

 

 悪役令嬢リリアーヌとしての膨大な魔力が爆発し、シオンの影とゼノスの氷を、一瞬で左右に吹き飛ばした。

 二人は驚愕の表情で、肩で息をしながら立ち尽くす私を見つめた。


「……二人とも、何をやっているの。……今、何時だと思っているの? ……シルの安眠を妨げ、アリア様を怖がらせ……。……貴方たちの私への『愛』とやらは、私の『推し活』を邪魔するほどに不粋なものだったかしら!?」


「お、お嬢様……。私は、ただ……」


「リリアーヌ。……私は君を……」


「黙りなさい! ……閣下。その指輪は、今すぐしまってください。……契約も、求婚も、今の私には必要ありません。……私は今、アリアちゃんの新曲プロデュースと、シルの換毛期対策で、脳内メモリがいっぱいなんですのよ!」


 私はゼノスの手にあったサファイアの小箱を、無造作に彼の胸元に押し返した。


「……それからシオン。……貴方、お仕置きが必要ですわね。……今夜は私の寝室の隅で影と同化するのも禁止よ。……客室で、その熱くなりすぎた頭を冷やしてきなさい!」


「…………っ!? そ、そんな、お嬢様! それだけは……! お嬢様の香りを嗅がずに朝を迎えるなんて、死んだ方がマシです!」


「……死なないわよ、一晩くらい! ……さあ、二人とも、今すぐこの部屋を片付けて、それぞれの持ち場に戻りなさい!」


 私の剣幕に、帝国最強の魔導師と、世界最強のヤンデレ執事が、まるで叱られた子供のように肩を落とした。

 

 シオンは絶望の表情で影の中に沈み込み、ゼノスは苦虫を噛み潰したような顔で、着崩したシャツを整えながらテラスを去っていった。


(……ふぅ。……死ぬかと思ったわ。……甘々プロポーズからのガチバトルなんて、乙女ゲーのイベント盛り込みすぎよ。……心臓に悪いわね、全く)


 私は一人、荒れ果てたリビングで、ぐったりとソファに沈み込んだ。

 

 静寂が戻った部屋。

 だが、テラスのテーブルの上には、昨夜から置かれたままの「ハシムの金貨」が、異様な存在感を放っていた。

 

 不意に、その金貨が、血液を吸ったかのように、ドク、ドクと赤く拍動し始めた。


「……あら? これ、何か嫌な予感がしますわね……」


 金貨から立ち上る、砂漠の熱風のような魔力。

 

 攻略対象たちの愛の暴走。

 旧王国の凋落。

 そして、新たな「富の支配者」の介入。

 

 私の亡命ライフは、平穏スローライフとは程遠い、より巨大な渦の中に、私を飲み込もうとしていた。


(……まあ、いいわ。誰が来ようと、私は私の『推し』を守り抜くだけ。……さあ、明日はシルのブラッシングを倍にしてあげなきゃ!)


 私は、赤い光を放ち始めた金貨を無造作に引き出しに放り込み、眠るアリア様たちの元へと向かった。


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