第36話:バカ王子の凋落と、旧王国内部の反乱
国境付近の夜空は、物理的な闇とは異なる「絶望」の色に塗りつぶされていた。
三万の軍勢が駐屯していたはずの旧王国本陣。そこには今、規律も勇気も存在しない。あるのは、影に飲み込まれた仲間の悲鳴と、底知れぬ飢え、そして冷酷なまでに美しい「死の予感」だけだった。
「……ひっ、影だ! 影が動いている! 助けてくれ、エドワード殿下ぁ!」
兵士の一人が叫ぶが、その主君であるエドワード王子は、豪華な天幕の中でガタガタと歯を鳴らして震えていた。
彼の目の前には、影の中から音もなく現れた、銀髪の死神――シオンが立っていた。
「……おや。三万の軍勢を率いて帝国を火の海にするのではなかったのですか? ……今の貴方は、暗闇に怯えるネズミ以下ですね」
シオンは、血の一滴もついていない暗器を弄びながら、冷ややかにエドワードを見下ろした。
エドワードの喉元には、影で編み上げた見えない刃が食い込んでいる。
「……し、シオン! 貴様、公爵家の飼い犬の分際で! リリアーヌに伝えろ、今すぐこの呪いを解けと! さもなくば……!」
「……さもなくば、何ですか? お嬢様の名前を、その汚らわしい口で呼ばないでいただけますか? ……お嬢様は今、快適な冷気の中で、アリア殿と幸せに語らっておいでです。……貴方の薄汚い野心など、お嬢様のティータイムの『茶菓子』にもなりませんよ」
シオンが指を鳴らす。
刹那、本陣の食糧庫と武器庫が、巨大な影の口に飲み込まれて消失した。
「……ああ、それから。お嬢様からの伝言です。……『地獄の底まで、涼しくしてあげましょう』……だそうですよ。……文字通り、貴方の心臓を、絶望で凍りつかせて差し上げます」
シオンはトドメを刺すことさえせず、ただエドワードの精神を完膚なきまでに破壊して、影の中に消えた。
一方、同時刻。旧王国の王都『セント・ルミナス』。
そこでは、リリアーヌが仕掛けた「経済制裁」と「投影魔法」の効果が、爆発的な勢いで広がっていた。
「……見てくれ! 空に映っているのはアリア様だ! あんなに健やかで、美しく笑っていらっしゃる!」
「……それに引き換え、王子はどうだ? 聖女様を追い出し、リリアーヌ様を断罪し、その挙げ句に負け戦で俺たちの税金を使い果たしている!」
民衆の怒りは、飢えと共に頂点に達していた。
リリアーヌが帝国の流通網を止めたことで、王都の食料価格は十倍に跳ね上がり、美容クリーム『聖女の吐息』を奪い合っていた高慢な貴族女性たちも、「肌がボロボロよ! これもすべて王子の無能のせいだわ!」と、手のひらを返して反王政の声を上げ始めた。
(……ふふふ。通信機『シル・フォン』を通じて入ってくる旧王国のライブ映像、最高に面白いわね。……民衆の怒りという『炎』に、私がそっと『油(魔導理論)』を注いであげただけなのに)
私は離れのソファで、ゼノス公爵とシオン(戻ってきたばかり)に囲まれながら、モニターに映る旧王国の混乱を眺めていた。
足元では聖獣シルが、涼しい風に当たって「平和だねぇ」と喉を鳴らしている。
「……リリアーヌ。君の言った通り、兵を出す必要すらなかったな。……旧王国は今、内部から崩壊を始めている。……国民の八割が、王子の廃嫡と君の復権……いや、君を『新女王』にという声を上げ始めているぞ」
ゼノスが呆れたように、けれど誇らしげに私の肩を抱く。
「あら、閣下。女王なんて面倒な仕事、お断りですわ。……私はただ、アリアちゃんを虐めたバカ王子が、惨めに泥を啜る姿が見たかっただけですもの」
「お嬢様。……旧王国の王城に、私の影を忍ばせておきました。……いつでも、王城の屋根を影で押し潰して、あのアホ王子を物理的に廃嫡(圧殺)することが可能ですが、いかがいたしますか?」
「シオン、それは最後のお楽しみにとっておきなさいな。……それより、パンケーキは焼けたかしら?」
「……はい、お嬢様。……お嬢様のために、最高級のメイプルシロップを、影の魔力で熟成させた逸品をご用意いたしました」
シオンが恭しく差し出したパンケーキを頬張りながら、私はアリア様を呼んだ。
「アリア様。……見てください。……貴女を偽物と呼んだ人たちが、今や貴女の歌声を求めて泣き叫んでいますわよ。……これが、貴女の勝ち取った勝利ですわ」
アリア様は、モニターに映る旧王国の荒廃した様子を悲しげに見つめていたが、やがて凛とした瞳で私を見返した。
「……はい。……私、もう二度と、あの方たちの言いなりにはなりません。……リリアーヌ様が守ってくださったこの場所で、私はもっと、多くの人を幸せにするために歌います!」
(……あああああ! アリアちゃん、成長したわね! その力強い言葉、録音しておけば良かった……っ!)
旧王国軍の撤退、そして国内での大規模なクーデターの勃発。
リリアーヌの「ざまぁ」は、一国の政権を揺るがすレベルの歴史的快挙へと発展していた。
「……さあ、エドワード王子。……貴方の手札はもう一枚も残っていないわ。……次に会う時は、貴方の処刑台の上かしら? それとも、私の足元に跪いて許しを乞う時かしら?」
私は優雅に扇子を広げ、涼しい部屋で、勝利の甘美な味を堪能した。
魔法帝国の離れ。
そこは、世界で最も快適で、そして最も「恐ろしい」計略が練られる、悪役令嬢の聖域だった。




