第33話:鉄壁を穿つ影、仮面の訪問者
帝都の夜は、今日も魔導の灯りで穏やかに更けていく。
ゼノス公爵は急遽入った軍議で本邸へ戻り、シオンは「お嬢様の深夜の作業に備え、最高級の小麦粉で夜食のパンケーキを焼いて参ります」と鼻歌混じりに厨房へと消えた。
広い離れのリビングには、私と、足元で丸くなって寝息を立てるシルだけ。
私は一人、月明かりの下で『シル・フォン』の魔力通信回路の微調整を行っていた。
「……よし。これで混線も防げるはず。……あとはシオンの『粘着着信』を制限するフィルターを開発すれば完璧ね」
私がつぶやいて、ふっと一息ついた、その時だった。
――カサリ。
テラスの窓際で、微かな羽音がした。
シルが、それまで聞いたこともないような低い唸り声を上げ、瞬時に巨大化して私の前に立ち塞がる。
「……誰? シオンじゃないわね」
月光を背負い、テラスの手すりに音もなく舞い降りた影。
それは、帝国の軍服とも、旧王国の礼服とも違う、砂漠の夜を織り込んだような深い紺青の絹を纏った男だった。
顔の上半分を、金細工の美しい仮面で隠している。
だが、仮面の隙間から見える肌は、健康的な褐色。そして、夜闇の中でも鮮烈な光を放つ、トパーズのような金色の瞳。
「……伝説の聖獣に守られる悪役令嬢、か。噂以上の光景だな」
男の声は、砂漠の熱風のように低く、どこか人を酔わせるような響きを帯びていた。
(……このキャラ、知ってる。黒肌、黒髪、そしてこの圧倒的な『富』を感じさせる金装飾……! 続編の隠し攻略対象、商人王ハシム!? なんで彼が今ここにいるの!?)
私の脳内データベースが激しく警告を発する。
彼は原作では、アリアの歌声を聞きつけて「世界一の宝」として彼女を買い取りに来るはずの男だ。
「……異国の商人王が、帝国の公爵邸に夜這い……いえ、夜会も通さずに侵入するなんて。礼儀を知らない国の方なのかしら?」
「ははっ、手厳しいな。……だが、俺は『価値あるもの』を前にすると、じっとしていられない性分でね。……リリアーヌ・アステリア。君が作ったあの『魔導の板』、そして聖女の歌声。……それらが、海の向こうの俺の耳にまで届いたぞ」
男はテラスから音もなく室内へと足を踏み入れた。
シルの威嚇を柳のように受け流し、彼は私の目の前で不敵に笑う。
「君が撒いた知恵の種は、既に世界を動かし始めている。……旧王国のバカ王子だけじゃない。西の教会の古狸どもも、君という『果実』を奪いに動き出すだろう。……どうだ? そんな窮屈な帝国を捨てて、俺の黄金の都へ来ないか? 君が望むなら、星屑さえも買い取って並べてやるぞ」
(……出たわ。俺様系富豪のスカウト! でもこれ、承諾したら最後、宝石まみれの部屋に監禁されるバッドエンドまっしぐらよ!)
「お断りしますわ。……私はここで、アリアちゃんともふもふに囲まれて暮らすのが幸せなんですの。……貴方の黄金よりも、シルの毛並みの方がずっと価値がありますわ」
「……面白い女だ。価値基準が狂っているのか、あるいは真実を見抜いているのか。……だが、忠告だ。……今の平穏は、嵐の前の静けさに過ぎない。……次に会う時は、君を『商品』ではなく、一人の『女』として買い取らせてもらう」
男はそう言い残すと、私の手のひらに一枚の、見たこともない紋章が刻まれた「金貨」を握らせた。
「……それが、俺への直通電話だ。……困った時は使え」
刹那、金色の煙が部屋を包み、視界が開けた時には、男の姿は霧のように消えていた。
「――お嬢様!!」
廊下から、扉を蹴破るような勢いでシオンが飛び込んできた。
その手には、焼きたてのパンケーキではなく、抜身の暗器が握られている。
「……今、ここに誰かいましたね? お嬢様の髪に、見知らぬ男の香香(残り香)がついています。……誰です、どこのドブネズミですか! 今すぐ追って、その魂を影で磨り潰して参ります!」
シオンの目が、本気で血走っている。
影が怒涛のようにうねり、屋敷全体を飲み込もうとするほどの殺気。
「シオン、落ち着きなさい! もういないわよ」
私は手の中の、ずっしりと重い金貨を見つめた。
(……ハシムの登場。……原作のシナリオが、私の知らない場所で加速している。……でも、誰が来ようと関係ないわ)
私は、シオンの荒れ狂う影を鎮めるために、彼の手をそっと握った。
「シオン。……今夜はパンケーキを食べて、ゆっくり休みましょう。……明日から、もっと強力な『防衛魔法』の開発に着手するわよ」
「……お嬢様……。ええ、ええ……。私以外の男が、お嬢様の視界に入ることさえ許さない……。最強の『檻』を、一緒に作りましょうね……」
シオンの独占欲が、新たなライバルの出現によって、さらに深く、暗く、純化していくのを感じた。
魔法帝国の夜。
リリアーヌの「スローライフ」に、世界規模の波乱の足音が近づいていた。




