第16話:シオンの夜這い……ではなく夜間警護
帝都の夜は、旧王国のそれよりもずっと明るい。
窓の外では魔導の街灯が淡い青光を放ち、遠くからは蒸気と魔力で動く帝都特急の駆動音が微かに響いてくる。
私はゼノス公爵邸の天蓋付きベッドの中で、ようやく一日の疲れを癒やそうとしていた。
アリア様は隣の部屋ですやすやと眠り、聖獣シルも彼女の足元で巨大な毛玉となって丸まっている。……はずだった。
「…………ねえ、シオン。そこにいるのは分かっているわよ」
私が溜息混じりに声をかけると、部屋の隅、月光さえ届かない濃い影がゆらりと揺れた。
そこから音もなく現れたのは、夜着の上に黒いコートを羽織った我が執事、シオンだった。
「……流石はお嬢様。私の気配に気づかれるとは、やはり私たちは魂の深い場所で繋がっているのですね」
「違うわ。貴方の放つ、あのゼノス公爵への『殺意』が隠しきれていないだけよ。空気がピリピリして、肌が痛いくらいだわ」
シオンは困ったような、それでいて恍惚とした笑みを浮かべて、私のベッドサイドに音もなく膝をついた。
その距離、わずか数十センチ。
彼の銀髪が月光を弾き、暗闇の中でその瞳だけが、獲物を狙う獣のように不気味な光を湛えている。
「……申し訳ございません。あのアイスキャンディー公爵がお嬢様の手に触れた感触を、どうしてもこの手で削ぎ落としたくなりまして。……お嬢様、今すぐ、その手を私の唇で清めさせてください」
「断るわ。……それより、貴方、自分の部屋で寝なさいと言ったはずよ? ここは帝国の公爵邸。警備は万全ですわ」
「いいえ、お嬢様。……旧王国からの親書が届いた今、あのアホ王子がどのような卑怯な手を打ってくるか分かったものではありません。……影の中に潜む刺客を防げるのは、同じ影に住まう私だけです」
シオンの手が、私の頬に伸びてきた。
拒絶されることを恐れるような繊細さと、決して逃がさないという強欲さが同居した指先が、私の肌をなぞる。
(……ああ、もう。これ、乙女ゲームなら『夜這いイベント』の分岐点よね。でも、シオンの場合は『夜間警護(物理)』なのが怖いのよ。……でも、やっぱり顔がいい。この至近距離での美貌は、前世の推しアイドルのライブ最前列より破壊力があるわ……)
私は内面の結衣を必死に抑え込み、リリアーヌとして冷たく彼を見つめ返した。
「……シオン。貴方は私の執事でしょう? 主人の安眠を妨げるのが、貴方の言う『忠誠』かしら?」
「安眠、ですか。……お嬢様、私は怖いのです。貴女がこの国の技術に夢中になり、あの冷徹な公爵に微笑みかけるたび……私の心は、ドロドロとした黒い泥に飲み込まれそうになる」
シオンの瞳が、スッと細められた。
彼は私の手を両手で包み込み、まるで壊れ物を扱うように、指先に唇を寄せた。
「……いっそ、このまま貴女を影の中に引きずり込み、太陽の光も届かない場所へ閉じ込めてしまいたい。……そうすれば、貴女は私だけを見て、私だけの名前を呼び、私だけを愛でてくださるのでしょう?」
(出たわ……! ヤンデレ界の伝統芸能、問答無用の監禁宣言! 執着攻めキャラの真骨頂を、この至近距離で浴びせられるなんて……。この歪みきった愛情表現の肉付けどころか骨の髄まで堪能させてもらうわよ!)
シオンの声は、甘く、毒を含んだ蜜のように耳元で囁かれる。
彼の魔力が部屋の温度を僅かに変え、影が蠢いて私の足首を絡め取ろうとしているのが分かる。
「……残念ね、シオン。私はこの国で、アリアちゃんとシルと一緒に、最高のオタクライフ……いえ、悠々自適な生活を送るって決めたのよ。……貴方の狭い影の中じゃ、もふもふするスペースもないじゃない」
「……スペース、ですか。……ふふ、お嬢様は相変わらず、私の情熱を『もふもふ』で切り捨ててしまわれる。……ですが、そんな残酷なところも、たまらなく愛おしい」
シオンは私の手に深く口づけを落とすと、ようやく影の拘束を解いた。
彼は満足そうに目を細め、私の枕元にスッと立ち上がる。
「……分かりました。今夜は、この部屋の隅で、影と同化して貴女を見守りましょう。……もし、ネズミ一匹でもお嬢様の眠りを邪魔しようものなら……その命を、私の手で芸術的に散らして差し上げます」
「……隅っこじゃなくて、廊下でいいのよ?」
「いいえ。……お嬢様の寝顔こそが、私の唯一の救いなのですから」
結局、シオンはその夜、一歩も部屋から出ようとしなかった。
私は諦めて目を閉じ、彼の熱烈な視線を感じながら眠りにつくことになった。
(……まあ、いいわ。世界最強のヤンデレ執事がボディガードなら、旧王国の刺客なんて返り討ちどころか、塵も残らないでしょうし。……おやすみなさい、シオン。明日はアリアちゃんの新作ドレスの設計を仕上げなきゃいけないんだから)
意識が微睡みに沈んでいく中、シオンが私の髪をそっと一房掬い上げ、「愛しています、お嬢様。……世界が滅びても、私だけは貴女を逃がさない」と呟いた気がしたけれど、私はそれを夢の一部として処理することにした。
翌朝、私の枕元には、シオンがどこからか調達してきた「帝都で一番人気のスイーツ」が、完璧な温度で供えられていた。
……彼の愛は重い。けれど、甘くて、何より「顔がいい」から、私はまだ彼を解雇する気にはなれなかった。




