87話:バッドエンド・コレクターⅡ
ーーー???
ハシム様の船から放り出され、底知れぬ海へと沈んでいく感覚。それが消える間もなく、私の意識は暴力的なノイズによって無理やり引き摺り戻された。
次に目を開けた時、視界に飛び込んできたのは、かつて私が『魔導演算』の力で粉砕し、書き換えたはずの、あの忌まわしい『王城の審問会(断罪の場)』だった。
(……ああ。……また、ここなのね。……でも、……何かが、……決定的に違う……)
私は、冷たい石畳の上に転がされていた。
見上げれば、高く聳え立つ玉座。そこに座っているのは、エドワード王子でも、ゼノス閣下でもない。
――本物の、リリアーヌ・アステリア。
彼女は、私がかつて纏っていた至高の礼装に身を包み、その燃えるような紅い瞳に、底なしの『憎悪』を湛えて私を見下ろしていた。そしてその傍らには、彼女を慈しむように跪き、影の刃を私に向けて構えるシオンがいた。
「……やっと捕らえたわ。私の肉体を、私の人生を、……一年間も不当に奪い続けた、悍ましい憑依者」
リリアーヌ様の声が、凍てつく刃となって私の胸を切り裂いた。
彼女の声に、私が共有していたはずの「慈愛」や「仲間への想い」は、一文字も残っていない。そこにあるのは、自分の居場所を奪われた者の、正当な怒りだけだ。
「……リリアーヌ様……! 違うの、私は貴方を救うために……貴方がシオンに愛されるために……!」
「黙りなさい!! ……シオンが私を愛しているのは、私がリリアーヌだからよ! ……貴女がいたからじゃない! 貴女が私の内側にいたせいで、私は自分が自分でないような、薄気味悪い夢をずっと見せられていたのよ!!」
リリアーヌ様が激昂し、その細い指先で私を指差した。
彼女の隣で、シオンがゆっくりと立ち上がる。その瞳は、昨日まで私に向けていた「甘い執着」をすべて塗りつぶし、今はただ、目の前の『結衣』という異物を消去するための、冷酷なマシーンへと変貌していた。
「…………。……お嬢様の魂を汚し、その美しい思考を奪い、偽りの幸福を演じ続けた罪。……影の底で、千回殺しても足りませんね」
シオンの手から放たれた影の触手が、私の手首を、足首を、……逃げ場のない力で締め上げる。
かつて私を抱きしめたその影が、今は私の皮膚を焼き、骨を軋ませる。
「……シオン、……私を見て……! ……私は、……結衣よ! ……貴方の、……貴方の大切な……!!」
「……私の大切な主は、隣にいらっしゃるリリアーヌお嬢様だけです。……貴女のような『ノイズ』、一秒たりともこの世界に存在させておくわけにはいきません」
シオンの影の刃が、私の心臓のすぐ傍まで迫る。
リリアーヌ様が、冷酷な笑みを浮かべてその処刑を肯定した。
「……さあ、シオン。……その汚れた魂を、今すぐデリート(消去)して差し上げなさい。……私の人生から、この不純物を一滴残らず消し去って!」
(…………シオン! リリアーヌ様! ……嘘、……嘘でしょ……!? ……私が愛した二人が、……私を『最大の敵』として、……殺そうとしている……!!)
私の魂は、絶望のあまり砕け散りそうになっていた。
ヴォイドが、私の脳内で悦びを隠しきれない様子で囁き続ける。
『……素晴らしい光景だろう、結衣? ……君が救った「本物のリリアーヌ」が、君を殺す。……君が注いだ愛が、そのまま君を切り裂く刃になる。……これが、君の望んだ「ハッピーエンド」の成れの果てだよ』
影の刃が私の喉元を浅く裂き、熱い血がグレーのパーカーを汚していく。その激痛に意識を失いかけた時、不意に背後から、氷点下の嘲笑を纏った男が歩み寄ってきた。
「……もう、諦めなさい、結衣。……君がこの世界に注いだ技術も、愛も、……誰も覚えてはいない。」
ルカの蜂蜜色の瞳が不気味に発光した瞬間、私の思考が、真っ白な霧に包まれるように白濁し始めた。記憶が、感情が、……『結衣』という個の輪郭が、魔力によって強引に削り取られていく。
(……やめて、……考えられ、なくなる……。……私、……何を、……したかったの……?)
ヴォイドの声が、白濁していく脳内に直接、泥を流し込むように響く。
『……そうだ、何も考えなくていい。……私の隣で、意志を持たないパッチ(修復材)になりなよ。……そうすれば、もう誰も君を傷つけない。……君を拒絶した彼らも、私の手で消してあげようか?』
「……あ、……あ……」
ーーー???
私の瞳から光が消えかけ、その場に崩れ落ちようとしたその時、世界が再び暴力的な速度で暗転した。
次に足の裏に感じたのは、石畳の冷たさではなく、高く聳え立つ『処刑台』の木材の質感。
「――邪悪な憑依者を討つ! これこそが、アステリアの真の平和への第一歩だ!!」
見上げれば、勝利の笑みを浮かべたエドワード王子。そしてその隣には、迷いのない瞳で聖剣を構えるレオニダス。
かつて私が救い、私の『有能な駒』として跪いていたはずの騎士が、今は民衆の歓声に応えながら、私というバグを排除するためにその腕を振り上げている。
「死ね、魔女!!」
振り下ろされる銀色の閃光。
ドシュッ、という嫌な音と共に、視界が真っ赤に染まる。
死。
だが、ヴォイドはその死さえも「完了」させない。
首を撥ねられる瞬間、あるいは心臓を貫かれる瞬間が、無限に、無限にリフレインされる。……激痛。……裏切り。……孤独。……何度も繰り返される「推したちによる殺害」に、私の魂はついに、細かな砂となって崩れ落ちそうになっていた。
(……もう、いいわ。……ヴォイド様。……貴方の、……貴方の言う通りに……)
私が、差し伸べられたヴォイドの白磁のような手に、震える指先を重ねようとした、その刹那。
――チリン。
私の脳髄の奥底、ヴォイドの支配さえも届かない『魂のバックアップ領域』から、聞き覚えのある「通信音」が響いた。
『……師匠、……聴こえますか……!? ……応答して、……ください!!』
それは、酷く掠れていて、今にも消えてしまいそうなほど頼りない、けれど間違いなくこの世界で唯一、私の『技術』を信じ続けた男の声。
(……アルベルト……!? ……どうして、……貴方の声が……?)
『……シルが、……シルが道を繋いでくれています。……諦めないで。……僕が、……僕たちが、……必ず貴女をデバッグしに行きますから……!!』
ドォォォォォォォォォォンッ!!
ヴォイドの支配する虚無の世界に、巨大な「エラー(ノイズ)」が走り、漆黒の空がひび割れた。
ヴォイドが、初めてその美しい貌を不快そうに歪め、空を見上げた。
「……野良犬が、……私のサーバーにまで嗅ぎつけてきたのか。……しつこいね」
ヴォイドの指先から放たれた消去魔力が、アルベルトの声を再び闇へと追い落とそうとする。
だが、私の指先には、一瞬だけ、シルの「もふもふ」とした温もりの残滓が宿っていた。
(……待ってて。……アルベルト、シル。……私、まだ……死ねませんわ……!!)
絶望の連鎖。
だが、その最果てで、結衣の心に、小さな、けれど消えない「反撃の火」が灯った。




