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88話:理解者の帰還――アルベルトとシルの奇跡

 意識が、磨り減った古い羊皮紙のようにボロボロと崩れていく。

 何度も繰り返される処刑の熱。シオンの冷たい指先。ゼノス様の無関心な瞳。

 ヴォイドが仕掛けた『バッドエンド・ループ』は、私の「リリアーヌ」としての自尊心を粉砕し、ただの無力な「結衣」へと退行させていた。


「……もう、いいわ。……ヴォイド様。……貴方の言う通り、……私は、何も持たない、……ただの迷子ですわ……」


 私は、虚無の空間に膝をつき、力なく項垂れた。

 前世の姿をした私の身体は、もはや魔力を練ることもできず、ただ寒さに震えるだけの肉の塊に過ぎない。ヴォイドが、勝利を確信したように、月光を纏ったような美しい手を私へと差し伸べる。


「……賢い選択だね、結衣。……君が作ったあの『偽物の夢』は、もうどこにも存在しない。……さあ、私の胸の中で、新しい物語を書き始めよう。……君を傷つける誰もいない、君だけの楽園を……」


 ヴォイドの指先が、私の頬に触れようとした、その刹那。

 漆黒の虚無の天井が、物理的な「衝撃」を伴って、バキリと音を立ててひび割れた。


「…………なっ!?」


 ヴォイドが、初めてその端正なかおを驚愕に歪めた。

 その亀裂から溢れ出したのは、闇を焼き尽くすような、まばゆい黄金の奔流。

 そして――。


「キュ、キュアァァァァァァァァァァァァァッ!!!」


 鼓膜を震わせる、懐かしくも力強い咆哮。

 消去されたはずの聖獣シルが、身体の半分を半透明な「ノイズ(バックアップ・データ)」のように点滅させながら、その巨大な黄金の爪で虚空を力ずくで引き裂き、この閉鎖空間へと乱入してきたのだ。


「……シル!? シル、生きていたの……!?」


 私が叫んだ瞬間、シルの背中から、すすとオイルに塗れた、あまりにも場違いな男が転がり落ちてきた。

 歪んだ眼鏡を指で押し上げ、手には使い古された魔導レンチ(型演算器)を握り締めた、私の自慢の「助手」。


「……ハァ、……ハァ、……間に合っ、た……! ……師匠!! ……こんなところで、……神様(運営)に、……媚び売ってる暇なんて……あるんですか……!!」


 アルベルトだった。

 攻略対象メインキャラクターではなく、ヴォイドの関心事ターゲットですらなかった、ただの「脇役サブキャラ」。だからこそ、彼はヴォイドが張り巡らせた「愛の呪い」の網の目を潜り抜けることができたのだ。


「……アル、ベルト……。……どうして、貴方が……ここに……」


「……決まってるでしょう。……貴女の、……貴女の書いた、……あの滅茶苦茶で、……最高に合理的な、……デバッグ・ログを……最後まで、……物理化(具現化)するのは……僕の仕事、ですから……!!」


 アルベルトは膝をガクガクと震わせながらも、私の前に立ち、ヴォイドの視線を遮るようにレンチを構えた。

 その背中には、シオンやゼノス様のような圧倒的な強さはない。けれど、そこには私と一緒に「世界をより良くしよう」と、泥にまみれて図面を引いてきた、確かな絆の熱量があった。


 アルベルトの震える手には、使い古された魔導レンチではなく、淡い燐光を放つ小さなクリスタル――新83話でシオンが構築した『影の図書館』の、物理的なバックアップ・コアが握られていた。


「……師匠。……これ、……シオンさんが、……『万が一、世界がお嬢様を忘れても……これだけは、……残さなければならない』って、……僕の作業場に、……放り投げていったんですよ……!!」


 アルベルトが叫び、クリスタルを高く掲げた。

 ヴォイドが初めて、不快そうにその眉を寄せる。


「……計算違いだね。……愛に狂った執事の、……『保険』か。……だが、そんな過去の残骸で、私のシステム(呪い)が上書きできるとでも?」


「……上書き、……じゃない!! ……これは、……師匠が、……僕たちと生きた、……『実行履歴ログ』だ!! ……シルッ!! 展開して!!」


 シルの咆哮が虚空を震わせた。

 アルベルトの手から放たれたクリスタルが、虚無の空間で砕け散り、そこから濁流のような「記憶」の奔流が溢れ出した。


 ――アリアと笑い合った、海の浄化。

 ――ゼノスと共に凍らせた、魔導冷蔵庫の冷気。

 ――シオンが膝を突き、ストッキングを履かせた執着の夜。

 ――そして、アルベルトとシルの、穏やかな昼寝の記憶。


 その純粋な幸福のデータが、ヴォイドが張り巡らせた「地獄のループ」という偽りのプログラムを、内側から激しく侵食していく。

 そして、その奔流は、次元を越えて――別の場所で監禁(あるいは処刑台)にいた**本物のリリアーヌ**の脳内へと、強制的なパッチ(更新)として流れ込んだ。


「…………っ、……あ、……ぁ……!!」


 虚空に、もう一人の私の姿がホログラムのように浮かび上がる。

 怯えていた本物のリリアーヌが、頭を押さえて絶叫した。

 彼女の中に眠っていた、結衣と一緒に試行錯誤し、世界をデバッグ(修正)してきた、あの美しくも騒がしい一年の記憶が、ヴォイドの呪縛を焼き払いながら再接続リブートされていく。


(……思い出したわ。……私の中にいた、……お節介で、強欲で、……誰よりも優しい『もう一人の私』を。……貴女が、……貴女が私に、……『愛される権利』を、……教えてくれたのに……!!)


 本物のリリアーヌの瞳に、かつての不敵で傲慢な、けれど確かな意志を宿した「光」が戻った。

 彼女の肉体(OS)の権限が、ヴォイドから彼女自身の手へと奪い返される。


「……ヴォイド様。……貴方の望んだ『背景データ』の姿は、……私たちが、……上書き(アップデート)いたしましたわ!!」


 私は、前世の姿(結衣)のまま立ち上がり、シルの首元を強く抱きしめた。

 シルの温もりが、私の魂に「プレイヤー権限」を再び付与していく。

 

 絶望のループは、今、物理的に粉砕された。

 

「……ありえない。……たかが助手の、……たかが演算ミスのような一欠片が、……私の完全な物語を汚すなんて……」


 ヴォイドが、冷酷な管理者の貌をかなぐり捨て、激しい「嫉妬」と「憎悪」に満ちた瞳で私たちを睨みつける。

 

「……師匠。……お待たせしました。……ここからは、……僕たちの、……反撃のデバッグ、……開始ですね!!」


 アルベルトが眼鏡を光らせ、不敵に笑う。

 

 結衣、アルベルト、シル。

 そして、記憶を取り戻し、自分を取り戻した本物のリリアーヌ。

 

 最強にして、最高に「オタクな」チームによる、神への逆襲が、今、始まった。

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