第五話 回復と名付け
屋敷の扉をくぐった瞬間、静は胸の奥でほっと息を吐いた。
結界の内側。それだけで外の張りつめた気配が嘘のように遠のいていく。
空気が柔らかくなり、肌に触れる温度も優しい。ここは自分の場所だ。守られた、安全な場所。
腕の中の小さな重みは、まだ微かに震えていた。
体温は低く呼吸も浅い。
「……大丈夫、ここは安全だからな」
静はそう呟き、日当たりの良い部屋へと向かった。窓からは柔らかな光が差し込んでおり、床も壁も温かみのある色をしている。
簡易的な寝台に毛布を敷き、その上にそっと黒い子猫を寝かせる。
呼吸は浅いが途切れてはいない。
――生きている。
それだけで胸の奥が少し緩んだ。
まだ安心はできないが
少なくとも今は、この小さな命が消えてしまうことはない。
◆
静はステータスを開き、屋敷コアと接続する。【再購入】の項目から、医薬品、包帯、消毒液を選択する。それからもう一つ、ふと指が止まった項目がある。
そして――ペット用品
「……もしかしてこれ、この子にも使える?」
答えは表示されない。しかし使えない理由も見当たらなかった。見た目は地球の猫と変わらない。ならば試してみる価値はある。
屋敷内に満ちる穏やかな空気のせいか、血はすぐに止まり、傷口も思ったより早く塞がっていく。普通ならもっと時間がかかるはずなのに、まるで時間が早送りされているかのようだ。
――屋敷コアの影響だろうか?
女神から与えられた『健康な体』の特性が、屋敷を通してほんの少しだけ他者にも分け与えられている。
完全な治癒ではないが、それでも確かに――効いている。
静は静かに優しく、丁寧に手当てを続けた。焦る必要はない。目の前の小さな命をできる限り助けてあげたい。それだけを考える。
どれほど時間が経っただろうか。
小さな気配がぴくりと微かに揺れた。
黒い子猫がゆっくりと目を開く。金色とも紫ともつかない瞳が、部屋を警戒するように動き、やがて――静を捉えた。
不思議な色の瞳だ。地球の猫では見たことがない。
だがその瞳には確かに意志の光が宿っている。
「……」
一瞬、毛が逆立つ。小さな唸り声。威嚇。
それは当然のことだった。見知らぬ場所で、見知らぬ人間に囲まれている。
警戒するのは、生き物として当たり前の反応だ。
静は動かない。静かにその場に座ったまま、じっと子猫を見つめる。
威嚇は長く続かなかった。
子猫はふっと鼻を鳴らし、ほんの少しだけ体の緊張をほどいた。朦朧とした意識の中でも感じていたのだろう。自分を拾い上げてくれた、あの温もりを。
「……大丈夫だよ」
静は動かない。優しく静かな声でそう告げる。
子猫は一度だけ瞬きをし再び体を丸めた。
まだ疲れているのだろう。休ませてやらなければ。
しばらくして、小さく「きゅう」と腹の鳴る音
静は思わず口元を緩めた。警戒心よりも、空腹が勝ったらしい。
「……お腹、空いてるよな。ちょと待ってな」
静はペットフードを用意し、そっと差し出す。最初は警戒するように匂いを嗅いでいた子猫だったが、やがて小さな口で恐る恐る食べ始めた。一口、また一口、徐々にペースが速くなり、やがて夢中で食べるようになる。
その様子を静は少し離れた場所から見守る。
急かさず、触れすぎず、静にそこにいる。
子猫は食べ終えるとふらりと立ち上がりよろけながら静の方へと近づいてきた。
まだ足取りは覚束ないが、確かに力が戻ってきている。
そして――ちょこんと、足元に座る。
「……俺を選んだのかな?」
誰にともなくそう呟いた。この小さな生き物が、自分の傍にいることを選んだ。
逃げようと思えば逃げられたはずなのに、ここに留まることを選んだ。
それは信頼なのか、それとも、ただ他に行き場がなかっただけなのか。
わからない。だが、それでもいい。
夜。窓から差し込む月明かりが部屋を淡く照らす。その光を浴びて、黒い子猫の毛並みがほんのりと紫を帯びて見えた。昼間は気づかなかったが、光の角度によって、微妙に色が変わる。まるで夜空の色を映しているかのようだ。
静は息を呑む。
「……月、か」
静は子猫を見下ろし静かに名を呼んだ。
「ツキ」
反応を見るように、もう一度
「ツキ」
子猫は小さく首を傾げる。まるで、その名前の意味を考えているかのように。
そして――額に埋め込まれた黒水晶がほんの一瞬、淡く煌めいた。
「……?」
静は目を瞬かせる。次の瞬間にはもう、何事もなかったかのように静まり返っている。
それでも胸の奥に微かな引力のようなものが残った。強い束縛ではない。誓約でもない。ただ――『離れたくない』という、静かな感覚。
それは自分の感情なのか、それともツキから伝わってきたものなのか、判別がつかない。
静は理由もなくツキを抱き寄せた。小さな体が、自分の腕の中に収まる。
温かい。生きている。
「気のせい……かな?」
腕の中でツキが小さく喉を鳴らす。「にゃあ」という声ではなく、ただ満足そうな安心したような音。
言葉も、儀式も、契約の宣言もない。ただ、互いを拒まなかったという事実だけが、そこにあった。
知らぬ間に誰にも告げられず、ただ自然に。
小さな光は自分の居場所を選んだのだった。
世界は――また少しだけ、変わっていく。
一人ではなく、二人の生活へ。
静かにだが確実に。




